母の闘病
2008年 08月 25日
母の闘病について兄が述べている映像もアップされてました。これはまだ母が元気でいるときに話されているので、今では懐かしい映像ってことになりますが、今みると、あれれ?ってところもありますね。
まず母の余命を、私は主治医から「あと2週間」って聞いていたんですが、兄にはあと1ヶ月~2ヶ月って言ってたんですね。私は母の最初の開腹手術に立ち会っていて、お腹を切られて内臓を出して横たわっている母を目の前にしてドクターに「ここまでになっていたら、余命は2週間と言わざるをえないです」って言われてました。
翌朝、先生も、兄を前にして、さすがに2週間とは言えず、多少水増しして下さったんでしょうねえ。
この2週間っていう数字に、なんでこだわるかというと、「麻酔をかけて眠ってはいても、母の潜在意識はちゃんとみんなの会話を聞いてるんだから、そんな不吉な予言は言わないでほしい」って、そこでかなり憤慨したことと、「入院する前日まで車に乗って仕事をしていた母が2週間後にこの世から消えてなくなるなんて、絶対あり得ません! この人は母の生命力を知らない!」って、かえってファイトが沸いたから。
今になってみれば、どうでもいいことですが、私はあと2ヶ月って言われてたら、かえって現実的でショックを受けていたと思います。
ちなみに母のお腹の中はどんなだったかというと、ちょうど小さな小さなゴマ粒ほどのガンが内臓一面に広がっていて、もしそれがガンじゃなかったら「人の内臓の表面って、そういうゴマ粒模様になってるんだ」と信じてしまっていたほど。
ガンが、5ミリとか1cmとかの固まりを作っていたら、CTを取ったときにでも発見できたかもしれませんが、横に静かに広がっていたので、発見ができなかったっていうのもあるみたいです。
あと、バイオレットレイを使ったのは、アニメイテッドアッシュを使ってからかっきり15分後。これは時計を計りながら、ほとんど毎晩していたので、兄の記憶より私の記憶のほうが正しいです。
母がもうちょっと真面目に食事療法に取り組んでくれたら、もっとちょっと長生きできたんじゃないかと思うこともあります。でも、私が普段食べている野菜の量に怖れおののいて「私はウサギじゃない」とか「私はキリギリスじゃない」って言って、あんまり野菜を食べてくれなかったし、病院食があまりにまずくて「命は短くても人間らしく美味しいものがたべたーい」って言って、お魚やお肉を食べたがってましたから(1度、ファミレスに行って「今日は何でも食べていいよ」って言ったら喜び勇んでトンカツを食べてた母です・・・・)、仕方ないですね。
またガンによって大腸が破裂したり、尿管が溶けて無くなったりと、大手術は成功したのに、その後に小手術が何度かあり、その度に麻酔をかけて内臓の機能を止めたことが、母の身体にダメージを与えたようにも思います。
とはいえ、仲のいい姉や弟がまだ元気で、毎日のように誰かがお見舞いに来てくれてたし、私も母との時間がたっぷりとれたし、金銭的にも少し安定してきて母の入院費はなんとか払えたし、病気になったタイミングとしては絶妙な時期を選んでくれたような気がします。
もうちょっと前だったら、私も母の入院費の支払いや、父の世話に何度も広島-東京間を往復するのが難しかったし、またもうちょっと後だったら、母に十分時間をとってあげるのが難しかったでしょうから、大きな流れで俯瞰してみると「グッドタイミングを選んで病気になったな」って思います。
今でも「母が生きていたらいいのにな」って思うことは何度もあるけど、ある日、ご家族の方が、事故で亡くなったり、心臓発作や脳梗塞で急死されたり、あるいは殺されちゃったりっていう人がいるなかで、ゆっくり母とサヨナラできたのは幸せだったなと思います。
これも順番ですからね。