" Be Water, My Friend" 『友よ、水になれ』
2021年 12月 03日
父は十代から瞑想を始め、生涯にわたって何らかの形で瞑想を続けていましたが、これは意外なことではないと思います。瞑想は、全体像を把握してあなたのコップを空にするための必要な空間を心につくり出すうえで、最適なツールなのです。(中略)ここでの瞑想は、心をほぐして少し浮かせる方法と理解してください。これは空間をつくり出す練習です。つまり、いろいろな動機からあなたを解放し、本来のリラックスしたおだやかない自分の性質とつながる方法なのです。(略) 目覚めてはいるが、心は何にも縛られておらず、イメージからアイデア、思考、無の状態へと簡単に移行していく。(略) いわゆる「思考」が活発にはたらくことのない状態です。(中略)このおだやかな空間をつくるにはさまざまな技法があります。心が迷いはじめたり、経験していることに判断を下しはじめたりしたときは、呼吸に意識を定めておだやかな状態を取り戻そうとする人もいます。父のやり方は少し変わっていました。動きながら心を解放し、たゆたわせるのです。 びっくりですね。朝のジョギングを瞑想の時間にしていました。裏庭を歩き回って瞑想することもあった。どう瞑想するかは問題ではありません。目は開けていても閉じていてもいい。座っていても立っていてもいい。大事なのは心の落ち着きが得られる空間です。つながれていた心を解放し、新しい知覚や認識が入る余地をつくる。(略)このような瞑想は、水のようになる練習に役立つツールのひとつとお考えください。心をおだやかにするために「懸命な努力」をするのでは、その時点ですでにリラックスではない、と父は考えていました。(中略)リラックスしなくてはいけない。だが「しなくては」と思った瞬間、自分の意志とは矛盾することを考えていたのだ。「しなくては」にひそむ努力の要求は、すでに「リラックス」という自然な状態と矛盾していた。濁った水を澄ませることのできる人はいない。しかし、じっとしていれば水はひとりでに澄んでいく。絶対的な安らぎの状態を確保できる人はいない。しかし、心をおだやかにしたまま時が過ぎていくと、だんだん安らぎが生まれてくる。
人は生きているとき柔らかく柔軟性に富んでいる。死ぬと硬直する。身体でも、頭でも、精神でも、柔軟性は生で硬直は死。柔軟であれ。自分の限界や区別を無視してたえず流れ続ける、住み処を定めない心を持ちなさい。特定のどこかに心を定めようとせず、全身に充満させて、自分の存在全体に自由に流れるようにしなさい。心に貪欲さや執着を許してはならない。どうなるべきという観点から「現状」を見てはならない。感情や気持ちをなくすのではなく、心に執着や遮断がない人間になることだ。大きな目標やその達成には大小問わず、かならず障害物が出てくるものだ。大事なのはその障害物に人が示す反応であって、障害物そのものではない。立ちはだかる困難にはひとつの意味しかなく、それはその困難にどう反応するかだ。何事にも執着せず、物事をあるがままに見ること。蓄積してきた汚れを全部かき落とし、裸の状態で実相を明らかにする。先入観という重荷を捨て、この先出会うあらゆる人と出来事に心を「開く」こと。周囲で起こっていることをおだやかに見る。ただ純粋に見ることで、一部ではなく全体が見えてくる。意志とは何か?それは無限に展開する宇宙の中で、自分のエネルギーをその展開と調和するよう、自分のやりたいことへ向けようとすることだ。