長く生きていると、正直者がバカをみる、と愚痴の一つも言いたくなるような出来事を経験したり、嘘や欺瞞に満ちた人が出世したり、世の名声を得ていると思えることがあったかもしれません。
ケイシーリーディングにこんな一文があります。
『真っ正直に、誇りを持って生きよ。どんな人に対しても、面と向かって、「私は造り主に導かれている」と言えるようであれ。これこそが正しいことである。 それは、自分が優れているとか、価値があるといった、自己称賛のためではない。 なぜなら、すべての魂は造り主の印をもつからだ。 しかし、その魂が「邪悪の果実」を行うならば、その印は汚れ、しみだらけのものにならざるを得ない。そして、その結末は恐るべきものになる!』531-3
『邪悪な果実』。これはケイシーリーディングによく登場する『霊の果実』と対極にある言葉です。調和、平和、喜び、愛、辛抱強さ、忍耐、兄弟愛、親切といったものが『霊の果実』なら、では『邪悪な果実』とはどんなものか・・・。
別のリーディングでケイシーは『邪悪な果実』とは、憎しみ、荒々しい言葉、不親切な思い、暴虐といったものであると述べていました。私はさらにこれに、三毒(むさぼり、怒り、愚痴)や、悪口、妬み、嫉み、恨み、不道徳なこと・・・なども付け加えたい。
ともかくも、そういった『邪悪な果実』を日常的に表わしていると、魂の「印」は汚れ、しみだらけになってしまう!
ケイシーによると、それぞれの魂のアカシックレコードの表紙には、その魂の状態がひと目で分かるような「絵」が描かれています。汚れだらけの「魂の表紙」となるか、美しい「魂の表紙」となるかは自分の生き方次第。その表紙に何が描かれるのかは、一人ひとりの生き方に委ねられています。
・・・ということは、そんな人がたとえ身近にいたとしても、こちらがイライラしたり「あの人はずるい!」と声高らかにいう必要はないってこと。なぜなら、彼らは自分のアカシックレコードを書き続けているから。
それに、この世的な富や名声を得たように思えても、そんな富は今回の人生限り。あちらの世界では通用しません~。自分が自分の魂を汚してきた結末は自分で責任を取ることになる。汚れに応じた世界が死んだあとで待っています。
余談ですが、
誰かが亡くなると「生前は・・・」と言いますよね。死んだんだから、生きている時のことは「死の前」のはずなのに、「生の前」っていうことは、つまりは「あちらの世界」が「本当の生」であるってことを昔の人は分かっていたのかもしれませんね。ともかくも、その「生前」の行いによって蒔かれた種は、いつか自分で刈り取ることになります。

直前のリーディングでケイシーはこのように述べています。
『あなたの人生に働く見えない力に委ねることだ。しかし、そのようにするには、そのようなものが人生に働くよう、そのように生き、行動し、かくあらねばならない。無理を押し通して同胞を利用しようとすることは、不満や不幸せ、争い、恐れをもたらす事柄に向けて突き進むことに他ならない』
「あの人ばっかりずるい!」みたいなことを感じることがあったら、このリーディングを思い出して下さいー。ここで陰口を言ってしまうと、同じ『邪悪の果実』を食べてしまう。
自分の魂にシミをつけないよう、私たちに出来ることは、こちらはあくまで平静で平安。そして、ひたすら『霊の果実』を食べ続ける。こういった忍耐も『霊の果実』です。
見えない力が十二分に働けるかどうかは自分次第ってことですね。