聖書通読はただいま申命記。
モーゼがこれまでのことを振り返りながら、率いている民に神の掟を語っていきます。
旧約聖書に登場する神は、ユダヤの民に謀反があるとすぐに「死刑」に処してしまう。神に忍耐はないのかと思ってしまいます・・・。
例えば、ユダヤの神以外の神を信仰するようにと他の人をそそのかした人がいた場合はこんな感じです。
あなたはそそのかす者に同調したり、その言うことに耳を傾けてはならない。憐れみをかけたり、同情したり、庇ったりしてはならない。必ずその者を殺しなさい。処刑するには、まず最初にあなたが手を下し、次に、民がみな手を下さなければならない。その者が死ぬまで石を投げなければならない。
・・・それが事実で、そのような忌み嫌うべきことがあなたのうちで行われたことが確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣でうち殺し、その町とそこにあるすべてのものを滅ぼし尽くし、その家畜も剣でうち殺さなければならない。(そして、その町にあったものは、中央に集められ、火で燃やし、神に対する捧げ物とする。その町を廃墟にし、何一つ手元に残してはいけない)
石打ちの刑は、直接その人に触れることなく執行できるので、自分が汚れることなく処刑でき、また民全員が投げることで人々が同じ罪を犯さないという抑制になりました。イエスの時代、マグダラのマリアがまさに人々によって石打ちの刑に処されそうになったとき、イエスがマリアを助けたエピソードがありますが、まず最初にその罪人の証人が石を投げることが重要で、それは神の掟だったんですね。
あまりにも、アチコチに「死刑」という言葉が出てくるので、ユダヤの神は「こまわり君」か!と突っ込みを入れたくもなりますが(笑)、こまわり君のイラストを載せると不敬罪になりそうなので、止めておきますー。
今でも続いているユダヤの過越の祭りでは、酵母を入れないパンを7日間食べます。それだけではなく家のどこにも、国のどこにも酵母が残っていてはいけないので、過越の祭の前には家を徹底的に掃除をし、家の中に酵母菌がないようにするそう。これは、モーゼがエジプトでずっと奴隷となっていたユダヤの民をエジプトから出国させた際(出エジプト)、酵母でパンを膨らませる時間もないほど急に出発をしたことを思い出すため、だとされています。

でも、なんとなく、このあたりまで読んでくると、ユダヤの神の言わんとすること、しようとしたことが見えてきますね。
つまり、悪事を働いた者、他の神を信じるように他の人をそそのかした者、神に謀反を行ったり行おうとした者を、ことごとく死刑に処したり町ごと滅ぼすのは、どんな小さな悪の芽でもその場その場で摘んでおくため。たとえ、ほんの少しの酵母でもパン全体が膨らんでしまうように、人はすぐに悪にそまり、神から心を離してしまう。その悪しき心は小さなうちに駆除する必要がある。
諸悪や誘惑の象徴が酵母であり、酵母の入っていないパンを7日間食べながら神に向かうことで、自分のなかの酵母(悪しき心)を洗い流し身を浄める。
また安息日も、人の心は弱いので、金曜日の日没から翌日の日没までは、神を礼拝すること以外は何もしない。1週間のうち1日だけでも神を礼拝する時間を強制的に持たせないと人はすぐに迷ってしまう。
ユダヤの神は偶像崇拝を厳しく禁じていますが、「偶像」とは何か像を造ることではなく、ケイシーによると《自分の霊的成長から外させるすべてのもの(例えば、名誉や地位、権力といった人の上に立ちたいというような欲求、お金が欲しい、車が欲しい、家がほしい、美しいGFが欲しいといった物質的な欲求、あるいはサボりたい、楽をしたい、安易な道を選びたいといった怠惰さ)を崇拝してしまうこと》。
神は人間の弱さをとことん知り尽くしているとあらためて思います。
また、神は、占い師、易者、呪文を唱える人、霊媒などがお嫌い。そういうことを信じる人がいたら、その国の人々全員を追い出されてしまう・・。求められているのは、神だけを信じ、お伺いを立てるのは神に対してである、という姿勢であり、それは、外にいる大いなる神に、ということだけではなく、自分の内なる神の声を聴け、ということであろうと思います。