自宅にいるときには朝瞑想の前に、1ページずつ、1ページずつと、カタツムリのようなゆっくりの歩みながら聖書を読み続けています。
ようやく民数記。今回は聖書が面白い。読めています。以前はツマラナイと投げ出したところも、なんとか越え、民数記まで到達しました。
さて、モーゼがユダヤの民をエジプトから連れ出し、神が与えて下さる新天地へと歩き始めた出エジプトのあたりから旧約聖書には、民が神に不平不満を言い、背き、そして、神が民に天罰を与える、というシーンが何度も出てきます。
例えば、
もう流浪の民としてこの先一緒に行かないと言い出した人に対し、神は彼らを家族もろとも絶滅させています。
モーゼが、これらすべての言葉を話し終えるや否や、彼らの足元の大地は裂けた。大地は口を開けて、彼らとその家族、コラに属するすべての者とすべての持ち物を呑み込んだ。彼らと彼らに属する物はすべて、生きながら陰府に落ちた。大地は彼らを覆い、彼らは集会の中から消え去った。彼らの周りにいたイスラエルの子らはみな、彼らの叫び声を聞いて逃げ去った。「大地がわたしたちをも呑み込むかもしれない」と思ったからである。
そして、翌日、それを見ていたイスラエルの人たちがモーゼとアロンに文句を言ったあと、主はモーゼにこう告げます。
「この会衆から離れよ。わたしは彼らをただちに滅ぼし尽くす」
…そして疫病が流行り、疫病で14,700人が死んだと聖書にはあります。
主に背いた人は尽く、主によって一網打尽にされてしまう。
ユダヤ教では7日目は安息日となり、何もしてはいけないと、労働を禁じられています。安息日を破った人も滅ぼされています。
かつて、イスラエルの子らが荒れ野にいたとき、彼らは安息日に薪を集めている男を観た。薪を集めている者を見た人々は、彼をモーゼとアロンおよび全会衆のところに連れてきた。(中略) 主はモーゼに仰せになった。「この者は必ず死刑に処せられなければならない。全会衆は宿営の外で、彼に石を投げて打て」。そこで、主がモーゼに命ぜられたとおり、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、石を投げて打ち殺した。
なんとまぁ、激しい。そのカナンの土地にはいかない、この場に留まると決めた人は家族もろとも全滅。安息日に薪拾いをした人は石打の刑。神の仕打ちは厳しい。
聖書を読んでいて驚くのは、神が日夜、火の柱となって導かれているなかで歩き、毎日マナが降って食べることに困らなくても、すぐに民は神に不平不満を言っていること。そしてそのたびに神の怒りにあい、天罰が下される。その繰り返しが旧約聖書には延々と書かれています。
人間とは、目の前の快適さを求め続ける生き物なんでしょうねぇ。
とはいえ、ユダヤの人々と神との関係性は、日々の生活の中にしっかりと根付いています。文句たらたらだけど、関係性はとても近い。
では、神から離れてしまった今の私たちの日々の生活はどうでしょう?
自然も自分も何もかもが神の顕れだという意識なく、神の息吹を日々感じ、感謝することはほとんどなく、せいぜい遥か昔の伝承や昔話として聴くだけです。
年に数回、神社やお寺に行ってお願いごとをするときくらいでしょうか。神に近づこうとするのは。日々の生活のなか、人生のなかに、神の臨在はすっぽり抜けています。
これは箱根神社
熱海の伊豆山の上に大量の土が盛られていたとか、メガソーラーが作られていたという投稿を見るにつけ、こういった経済活動を進めるときには、神を畏れる気持ち、自然に対する畏敬の念はないんだろうなぁと思いました。自然災害の多くは、そんな人間に対する神の天罰が下されたともいえるのかもしれません。
何も起こるはずがないという安易な予測のうえに、全てが進められていき、お金が動き、一部の人の利益のために自然が破壊されている・・・。
今の、私たちに必要なのは、日々のささやかな生活の中に神の息吹を感じること。神を畏れる気持ち、自然を畏れる気持ちなのかも。