6月に入り、朝6時半からやっている朝瞑想のアファメーションも、今日から『神の探求』第6課《親しき交わり》のものに変わりました。
『神の探求』は兄が翻訳している途中の原稿の時代からちょこちょこ読ませてもらっていたので、ざっくり読み通してはいたものの、『神の探求』をテキストにした朝瞑想を開始し、自分ごととして読み直してみると、同じ本なのに、内容の受け取りが全然違う。
まさにこの本の内容は《神の探求》のテキストです。そして、ケイシーを通して示された《神の探求》の課題のなんとハードルの高いことか!
親切であるよう努力しましょう。わたし達の親切を鼻であしらうような人達に対しても、思いやりをもてるよう自分を鍛錬して下さい。そうです。親切になれそうにない時にこそ、親切であるよう努めるのです。その努力は決して無駄にはなりません。他人からの見返りを期待して親切にするのではありません。わたし達が神との間に結ぼうとしている親しき交わりを、そのような些細なことで壊されたくないからです。
神を愛しながら、同時に、その魂が神の似姿に造られた隣人を憎むことはできません。愛と憎しみが1つの心の中に共存することはできないからです。
神との親しき交わりを得るには、友人や仲間を思いやったり親切にするだけでは足りません。そこには、敵を愛することも含まれなければなりません。これこそ、この世が必要としている神との親交の姿です。
ナオコさん、全然できてないじゃないですか!と責めないで下さいませ。まだまだ私も鍛錬中。
「え~! 他の人はいいけど、あの人を愛するというのはちょっとなぁ」という人が私のアタマの中にすでに浮かんでいます(笑)。

去年100歳を迎えられたグラディス・マクギャレイ博士も、以前は、ご自宅で『神の探求』のスタディグループを続けていらっしゃいました。同じ本をテキストに何度も何度も繰り返し学び、そして実践し続けても、まだまだ気づきや成長があると言われていました。
グラディス博士をしてそうですから、いわんや、わたしをや。
そして、日々の瞑想とともに学ぶ『神の探求』は格別だということも実感。左脳や知識では納得しがたい課題でも、魂の奥深いところで理解している気がします。