ようやくレビ記に到達
2021年 05月 26日
主はモーゼに呼びかけ、会見の幕屋から彼に告げられた。「イスラエルの子らに次のように言え、『お前たちのうちに誰かが家畜の中から主に献げ物をするときには、牛と羊のたぐいを、お前たちの献げ物としてささげなければならない。もしその献げ物が牛を焼き尽くす献げ物であるなら、雄で、疵のないものをささげる。主に受け入れていただくために、それを会見の幕屋の入り口に連れていく。その人は焼き尽くす献げ物の頭に手を押しあてる。こうして、それは受け入れられ、その人のための贖いとなる。次にその人が主の前で子牛を屠ると、祭司であるアロンの子らがその血を奉献し、その血を会見の幕屋の入り口にある祭壇の周りに注ぎかける。その人は焼き尽くす献げ物の皮をはぎ、各部分に切り分ける。祭司であるアロンの子らは、祭壇に火を置き、その火の上に薪を並べる、祭司であるアロンの子らは、その切り分けたものを、頭と脂肪とともに祭壇上の火の上にある薪の上に並べる。ただしその人はその内臓と足とをあらかじめ水で洗っておく。祭司はそのすべてを祭壇で焼き尽くす献げ物として焼いて煙を立ち上がらせる。これはなだめの香りとして主にささげる、火による献げ物である。
「穀物の供え物の残りは、アロンとその子らのものとなる。これは主への火による献げ物の中で、もっとも聖なるものである」と。
…贖罪の献げ物にする雄牛のすべての脂肪、つまり内臓を覆う脂肪と内臓の辺りにある脂肪のすべて、そして、2つの腎臓とともに切り出した肝臓の上にある小葉を和解の献げ物の牛から取り出すのと同様に取り出す。祭司は焼き尽くす献げ物の祭壇で、それらを焼いて煙を立ち上がらせる。
ですから、レビ記に出てくる各種の捧げ物は、第一義的に、神の完全な捧げ物であるイエス・キリストご自身を表しています。主イエス・キリストは、父なる神にすべてのことを委ねられました。人として来られた主は、ご自分の意思で行ったことは一つもありません。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。(ヨハネ5:19)」そして、最後の最後まで、実に十字架の死に至るまで、ご自分を父なる神に従わせました。動物の全焼のいけにえでは完全にすることのできなかった罪の赦しを完成されるために、主はこのように父なる神に対して言われます。「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇40:6-8)」ご自身がいけにえとなって、父のみこころを行われたのです。