「主の内に自己を失う」
2021年 04月 18日
質問「神の内に自己を失う」意義を話されていたが、それと、『理想を設定する』は相反しないか?「自分を捨てて生きる」のであれば目的や理想はどのように解釈すればいいのか・・・?」
兄からの返答理想は、言い換えれば「神の前にも誇らしく報告できる志し」です。
主の御心に違うことは、理想にはなり得ません。
ですから、理想を見出すということは、それ自体が自分にとって神の御心に叶う生き方とはどのようなことであるのかを見出す事になります。
主が「良し」とされる理想を見出し、そこに自分の人生を注ぐということは、それ自体が、自分を主の内に失うことと同じことです。理想の実現のためであれば、自分の栄誉であるとか、自分の個人的感情といったものは消し去ります。自己を消し去ります。
ケイシーも、「主の内に自己を失う」という言い方もすれば、「理想の内に自分を失う」という言い方もします。 一見、別物のように思えますが、究極の理想は「主に一致すること」ですから、Lose yourself in HimもLose yourself in Idealも同じ心境になって行きます。でもこれを了解するには、いくらか時間がかかるものです。私も数年かかりましたから。
ちなみに、「神の探求Ⅰ」の77頁にそのことが書いてあります。
そういう素晴らしい質問が出てくるのは嬉しいことです。
そのまま探求を続けられれば、体験としてLose yourself in ..がLose yourself in Him.と一体であることを実感されることと思います。
ついしんで届いたメールもついでにご紹介・・・
「主の内に自分を失う」とは主の中に自分を溶かし込んでしまう。
主と一つにしてしまうことが重要です。
そうすれば自分がいなくなる。
自分を主の内に溶かし込むと、主が私の中に入って来られて、私が真に生きる。
そのためには、主をありありと思い描けることが必要。
主が私の人生に深く関わってくださるということが信じられなければならない。
私は、ケイシーを保証人として、この主の約束を信じ、そこに自分の全部を賭けることにした。
一点賭けですね。All or Nothingでね。
これはトレーニングです。
「出来る、出来ない」という問題ではなく、「するか、しないか」ということです。最初は怖いけれど、勇気を出して、「主の内に自分を手放す」「主の内に落下する」
すると自分がほどけて楽になる。
自分にこだわる必要がないことが悟得され、いよいよ自分らしく生きられるようになる。
主の内に自分を失っているからこそ、自由に生きられる。
自分のことを気にしていないから、自分が真に生きたいように生きることができる。
人の誹謗中傷や悪口雑言も馬耳東風。
涼しい顔して、主の内に捨てた自分を生きる。
こうして、生きる喜び、存在の希望に満ちて生きる。
