土井善晴さんの「家でつくるゴハンは、一汁一菜でいい、素朴でいい、そんなにたくさん作らなくてもいい」という言葉に、多くの人は救われたのではないでしょうか。
私もその一人。頑張りすぎると数日で料理を作るのが嫌になってしまうので、毎日の食事はごくごくシンプル。しかも、2日連続で同じものを食べる、ということも少なくない(笑)。いまだに「自炊してますか?」と言われる程度の料理人です(大学生でもあるまいに)。
土井 侵されてます、前世代的な考え方に(笑)。だいたい、毎日バリエーション豊かな献立って、何をそんなんいろいろ作る必要があるの? レシピにおろせと書いてあった? そんなん誰か知らん人が考えたことに従う必要があるの? (うどを)酢水に浸す? 家で自分が食べるだけのものやのに?
岡村 あらら(笑)。
土井 でも言ったら、そういう考えを引きずってる人はまだまだ多い。そういうことが料理のハードルを高くしてしまうし、面倒やということになっていく。この「面倒」という言葉は、非常に問題がある言葉。生きていくのが面倒だと言ってんのと同じだから。
岡村 料理は生きると同義だと。
土井 そうです。だから、「面倒くさい」という言葉を封印しなくちゃダメやと思う。生きる覚悟を持つために。そもそも、コロナで時間がいっぱいできて「暇だから料理をする」という考え方が間違ってるんです。暇でなくても「せなあかんこと」。男も女も人間いうのは理屈抜きでそれを知っているんです。
それがいまは、代替えのものがいくらでもあるから、「料理は自分でしなくていいこと」と、まあ言うたら逃げ場を作ってるわけやから、「本当はしなくてもいいのにコロナだからやっている」となり、「面倒や」となる。なのに「健康でいたい」と言うわけ。
生きるためのことを大切にしないところに矛盾があるし、そこにいちばんの苦しみがある。
岡村 確かに。矛盾だらけかもしれません。だからこそ、土井さんの提案「一汁一菜」がその解決方法としてあるわけですね。
土井 日々の食卓でいろいろ作らんでいいんです。「ご飯、味噌汁、漬物」の「一汁一菜」があればそれで十分やから、そこで食というものを一旦フラットにして捉え直しましょうよと。そういう考え方であり哲学なんです。
私の場合、一汁一菜の菜は山盛りの野菜ですが(笑)、普段の食事はこれで十分って感じがします。
日本にずっと住んでいると、手のこんだ家庭料理、それも何品も出てくるのがフツーという感覚になりますが、海外で一般家庭にしばらくホームステイさせてもらうと、いかに欧米の人の普段の食事がシンプルか、食事の支度に時間をかけないかを知って、びっくりしますよ。
「焼いたチキンとジャガイモ」 以上! みたいな。
チーズとハムとクラッカーだけ、という家や、毎週金曜日はデリバリーのピザという家もありました。
子どもたちが持たされるランチボックスも、サンドイッチ用のパンにジャムとピーナツバターを塗って、二つ折りしてラップ+パックジュース+リンゴ一個、といったものがほぼ毎日のメニュー。きゅうりやレタスを挟んだりとか、卵を茹でてマヨネーズであえて…といったサンドイッチも作らない。時にレーズンが入ったり、時にチーズが入ったりするだけで、手のこんだキャラ弁も一度もお目にかかりませんでした。
毎晩の食事の支度が精神的に負担になっているなら、一汁一菜を基本にして、作れるときには+で何か作ればいいや、方式でいいのではないでしょうか。
その代わり、出汁は顆粒のじゃなくて、きちんと取る、醤油や味噌は老舗のいいものを選ぶ、野菜や無農薬や有機のものを出来るだけ選ぶ・・・。
外食ではなかなか素材まで選べないけど、素材から選べるのが家庭料理の特権。一汁一菜で十分、豊かな食卓が出来上がりです。