『イエスとエッセネ派』ドロレス・キャノン著 (その3)
2021年 03月 11日
D:ベン・ヨセフは何か哀しみを抱えているのでしょうか?S:いや、そんなことはない。彼は喜びに満ち溢れている。どんなに小さなことにも喜びや幸せを感じることができる少年だ。どんなときも、なにごともまるではじめてみたときのような生き生きとしたまなざしを向ける。この世のすべてを愛おしく、そして美しいと感じているかのようだ。D:ベン・ヨセフは自分の天命を知っているのでしょうか?S:(ため息をつく) 当然、知っている。ただ心静かに天命を受け入れている。(さらに深いため息をつく) (中略)D:ベン・ヨセフは律法条文を忠実に守っているのですか? それとも広く柔軟に解釈しているのでしょうか?S:広く柔軟に解釈しているが、愛の法則だけは忠実に守らねばならないといっている。そえさえ守っていれば、ほかはそれほど重要ではないとまでいいきっている。我々はこのことを彼に教えてはいない。これはベン・ヨセフが自分自身で気がついたことだ。内面にある・・・なんと説明すればいいのだろう。おそらくベン・ヨセフは己の魂と対話したのであろう。それぞれの事柄に対し、自分がどう感じているのかを吟味したうえで出した結論だと察する。愛だけは誰も教えることができない。愛は自分の内側から自然に沸き起こる感情だ。またもやうまく説明できていない気がするが、制約があるとすれば、ほかの人間や動物を肉体的にも精神的にも決して傷つけてはならない。どんな虐待も行ってはいけない。これだけは厳しく制約しなければならないと語っていた。思考は現実化するということを知っているからだ。なにかを強く思い続けた結果、その思念の波動が宇宙へ出ていき、それが現実のものとなる。したがって、邪悪な思想や邪念を心に溜めていてはならないのだ。これはとても重要なことだ。D:ベン・ヨセフはどこへ旅したのですか?S:どこへ旅しただと? 行かなかったところがないくらいだ。彼は世界中を旅した。聞くところによると、叔父のアリマタヤのヨセフと一緒に旅にでたそうだ。D:(質問の前半部は略) イエシュアが起こした奇跡の話が伝えられています。彼は本当に奇跡を起こしたのでしょうか?S:もちろんだ。その(奇跡)という言葉は君たちが使う用語だ。たしかに君たちからすると奇跡的なことのように思えるかもしれない。が、奇跡と呼ぶには大袈裟だ。それはこの世のすべての人に備わっている能力だからだ。だれでも生まれながらに備わっている能力なのだ。その能力を開花させるために、鍛錬に時間を費やせば、だれもが磨くことができる。まず瞑想をすること。自分の精神を鍛えることが先決だ。そうすれば、だれもがイエシュアと同等のことを成し遂げられる。イエシュアは潜在的に備わっていた能力だけでなく、自分自身の源とも調和していた。そして高次元の世界とも波長が合っていた。これらの組み合わせが、俗にいう(奇跡)を可能にしたのだ。イエシュアは宇宙と自然界の力を活用した。それらの現象を起こさせたのは、法則を熟知していたからだ。すべての人に備わっている能力を(奇跡)といっているだけなのだ。まずは、自分が宇宙の壮大なるパワーを通す回路となることだ。その源に自分自身をひらく必要がある。そうすることで、それらの現象を起こすことができるようになる。法則の知識を身につけることだ。そして「起こすことができる」と信じること。しいていえば、イエシュアは浄化されたきれいな回路を持っていたということだ。