宮崎貞行先生の『』を読んで以来、本山博先生のご著書を少しずつ読んでいます。
以前、何冊か読もうとトライしたものの、私には難解すぎて途中で挫折する、ということを何度も繰り返していましたが、今回は挫折なく、しかし数ページずつという亀のような歩みで読み進めています。
そんななか、『
神秘体験の種々相』に興味深い記述があったので、ご紹介。クンダリーニの目覚めについて書かれていた部分です。(本山先生は、クンダリニーと書かれています)
…実際、神様と1つになる時には外から自分の中にものすごい力が入ってくる。そして、自分のエゴの滓が残っている時には、身体も燃えるようになる。滓がきれいになるために燃えてしまうのです。ですから、クンダリニーが本当に目覚めた時でも、この世的な次元とかあるいはあの世的な、霊的な次元とかの汚いものがまだ残っている時には、まず、すごく身体が熱くなるわけです。
ですから、クンダリニーが目覚めて燃えるように熱くなっているというのは、その人がきれいでなかったという証拠なので、そんなのはひとつも自慢にならない。本当にクンダリニーがきれいになって目覚めたら、燃えたりはしないのです。スーッと上に上がってしまうのです。身体中の汚いものを燃やすために熱くなったりする必要はない。瞬間には熱くなっても、すぐスッと人間を超えた世界に抜けてしまうのです。(以下略)
へぇ。そうなんですか!と目からうろこの記述でした。
これまで読んだ、クンダリーニの目覚めや上昇についての記述は、どれも背骨に沿って熱のようなものが上がってくる、あまりに急激にクンダリーニが目覚めたり熱すぎると神経系が焼け焦げて死んでしまう人もいる・・・というようなことばかりだったので、熱があるのがクンダリーニの上昇かと思ってましたが、あの熱源はエゴの滓だったんですか!
もう30年ほど前ですが、まだOLをしていた頃、私にしては比較的規則正しい生活をしていた時期があり、夜11時になると20分ほど瞑想をして、それから寝るということを続けていました。
ある晩、瞑想していたら、なんだか身体が熱くなり、まだ肌寒い3月だというのに、その後、数日ほどノースリーブで過ごせたほど身体が温かかった時があります。背骨が熱いとか体調が悪い感じでの熱ではなく、単にセーターより夏服が心地よいという…(笑)。
数日経ったら平常に戻ったので、あれはいったい何だったんだろう? と不思議に思ってましたが、あれもエゴの滓が燃えていたのかしら(笑)? クンダリーニが目覚めるなどという霊的で劇的な体験ではありませんでしたが、それだけで留まってて良かった!
いずれにせよ、興味本位でクンダリーニの覚醒を求めたりするのは危険ですね。まずは日々、自分の霊性を磨く。
Q)どうすれば瞑想を上達させることが出来ますか?
A)示したように、あらゆる仕方で、あなたが出会う全ての人に対して、あなたの語るすべての言葉において、あなたの思うすべての思いにおいて、もっともっと忍耐強くなり、もっともっと辛抱強くなり、もっともっと耐え忍び、もっともっと愛に満ちることによってである。(272-9)
私はこのリーディングがとても好きです。クンダリーニがどうこうという前に、日々日々、もっともっと自分が忍耐づよくなり、愛に満ちて生きることができますように。