瞑想とは何か。リーディング281-41(その3)
2021年 02月 08日
それ故、瞑想しようとするのであれば、汝の精神を清めよ。 如何にしてか? それは、汝が清めに対してどのような概念を持っているかによる。 汝にとってそれは他の様々な事柄を混ぜ合わせることを意味するのだろうか。それとも、自我を脇にやること、水で洗うこと、火によって清めること、そういうことだろうか?
汝の概念がどのようであれ、内なる自己に真実であれ。 汝が選択したところを生きよ、実行せよ! 語るだけではなく、実行することだ!汝の体を清めよ。 汝自身をこの世の煩い(わずらい)から遮断せよ。 神と対面しようとするなら自分が何を為すか考えよ。「なるほど。しかし、多くの人は神に語りかけることはできない」と汝は言うだろう。 多くの人は恐れている、と言うだろう。 何故にか? 恵み深い神に近づくことができないほど、汝らは遠くに逸脱してしまったのだろうか。 神は、汝の欲するもの、汝の必要としているものをご存じである。 だが、汝らが自分自身の内にて実行するところの目的に応じてのみ、お与えになることができるのである。
それ故、汝の体を肉体的に清めよ。 汝の体を聖別せよ。 なぜなら、古(いにしえ)に与えられた律法にあるように、主は、父がその子らに語りかけるように、明日にでも汝と共に語られるであろうから。神が変わられたのだろうか? 汝らは、それほどまでにさ迷い離れてしまったのだろうか? 主は「汝ら我が民となるならば、我、汝らの神とならん」「たとえ汝らが遠くさ迷うとも、汝らが呼ばわるなら、我はその声を聞く」と与えられたのを知らないのか。
汝らの中に「なるほどそうだ。しかし、それは昔の人に語られた言葉であり、わたし達には関係のないことだ」と言う者があるとするなら、まことに、汝らには関わりのないことだ。
神を知ろうと望むなら、自分自身の魂を知ろうと望むなら、如何にして瞑想し、神に語りかけるべきか知ろうと望むなら、神がおわすことを信じなければならない。