鴻上尚史さんの本、ふたたび。
どの章もなるほどーと思いましたが、私が、うむむ~とうなったのは、「言葉のヒント」。
言葉を話すとき、そこには3つの輪がある、というところです。
第1の輪とは、独り言。自分に話す言葉。
第2の輪とは、相手と話す言葉。相手に関心や意識を集中しているとき。
第3の輪とは、みんなと話す言葉。3人以上でいるとき、大衆や社会に向かって話す言葉です。
目の前の人に言葉を話すとき「第2の輪」で話さなければならないのに、「第1の輪」や「第3の輪」でずっと話していることがよくある、と鴻上さんは言っています(私も同意です!)。
僕は嫁姑のゴタゴタは、ほとんどこのことが原因だと思っています。
お姑さんが、みそ汁を飲みながら「あら、また、このみそ汁、塩っ辛いわ。私を高血圧で殺す気かしら」と食卓で「第1の輪」で語った時、お姑さんは、お嫁さんに「言ったつもりになって」います。
が、「第1の輪」で言われた方は、「言われたつもり」になっていません。それは、毎日繰り返されるただの皮肉です。明日から、塩分をひかえようなんて少しも思いません。
お嫁さんも、また「第1の輪」で、「いつもと同じよ。ボケてきたんじゃないの」とつぶやくだけです。
(中略)
「第2の輪」の言葉は、相手とちゃんとコミュニケイトする言葉です。難しいのは当たり前です。
相手をちゃんと叱ろうとする時、最初は「第2の輪」だったのに、それが難しいのでだんだん「第1の輪」になったり、逆に「第3の輪」の怒りになったりするのも、ありがちなことです。
浮気を繰り返す恋人をちゃんと怒ろうとして、しかし「第2の輪」で怒れず、「キレる」という「第1の輪」の状態になってしまうのも、ありがちなことです。
そして、キレた本人は「言ったつもり」になっていますが、言われた方は「ああ、またキレてるよ。本当に、すぐキレるんだもんなあ」と「言われたつもり」にはなっていないのです。だって、「第2の輪」で、「どうしてあなたはそんなことをするの?もう私も限界です。もう許せません」と言われ続ければ「言われたつもり」になりますが、「もう、そうしてよ。むかつく! 信じられない! あー!もう!」と叫ばれ続けても、「言われたつもり」には、なかなかならないでしょう。
鴻上さんは、言いにくいことほど、ちゃんと相手の目をみて「第2の輪」の言葉でいうことが、とても大切だと述べています。人は面と向かって、なかなか厳しい言葉を言い続けることは難しい。「第1の輪」の独り言の応酬が続く方が、言葉がエスカレートしてしまうと。
こういったシチュエーション、きっと人生のあちらこちらで発生していることでしょう。
私も、「第2の輪」で言わなくちゃいけないことを、なんとなくはぐらかして「第1の輪」の独り言のように言ってしまった状況をいくつも思い出せます。あるいは、そこにいる第三者(あるいは飼い犬や猫)に向かって「その人に直してもらいたいこと」を言って、伝えた気になってしまうとか…(笑)。
でも、自分に投げられたボールじゃないから、ちゃんと受け取められてない・・・。
私は経営者なので、スタッフから「今月一杯で退職させて下さい」と言われたことは何度もあります。でも、この言葉を「第1の輪」でいう人もいたんですよね。つまり、何か作業をしながら、横を向きながら「今月末で辞めます」と言われたわけです。もう、その人が辞めて10年以上もたっていますが、その女性を思い出すと、いまだに、ちゃんと終わった気がしませんー(笑)。そして、彼女のことを思い出すと、きまってこのシーンが思い出される。
テンプル初出勤の日に、パソコンを見つめながら「おはようございます」と背中で言った人もいました。肝心の初出勤初日に、会社の代表者に背中で挨拶って、おいおい!って感じでしたが、結局、その方は、いろいろあって、2か月の試用期間で辞めてもらうことになりました。で、やっぱり、この時の彼女を思い出すと、その初出勤のシーンが思い出される(笑)。
自分はちゃんと「第2の輪」で言おうとしていたのに、相手にはぐらかされて、あるいは電話に出てもらえなくて、宙に浮いてしまった言葉もそのまま記憶の引き出しに入ったまんまです。
目の前の誰かに何かを伝えようとするとき、自分が「第2の輪」にいるかどうか。相手に気持ちと感心を向けて言っているのか。それとも気持ちや言葉が自分に向かっているのか、気にしてみるといいでしょう。会議や司会で大勢の人に向かって話すために「第3の輪」にいるのに、あまりに緊張して「第1の輪」から出られないーつまり、自分が何を言うかばかりを気にしている、ということもあります。
目の前の人に対して、ちゃんと「第2の輪」で言うことができる。それは、自分の精神の成熟度が試されるときでもありますね。