昨日の続きで鴻上尚史さんの『
孤独と不安のレッスン』から。
この文章もまだ本の冒頭のあたりです。全文ではなく、抜き書きしています。
…本当の意味で、「一人でいること」とは、会話する相手が自分しかいなくなることです。メールやインターネットのチャットで盛り上がっている時は、部屋に一人でも、それは「本当の孤独」ではありません。あなたは自分の孤独を埋めるために、いろんな会話を他人としているのです。「本当の孤独」とは、自分とちゃんと対話することなのです。
僕の場合、最初の衝撃は、沖縄の先の、南の島に行った時のことでした。小さな島だったので、目ぼしい観光スポットには行ってしまい、レンタサイクルも借りて、とりあえず、やることはやってしまいました。結果、毎日、ただのんびりするしかなくなったのです。
毎日、海を見てボーっとしているうちに、突然「自分はその仕事が嫌いなんだ」という思いが浮かびました。それは、本当に突然でした。どうやってその仕事をしようと、なんとなく考えていたのです。そしたら、突然、「自分はそもそも、その仕事が大嫌いなんだ」ということに気づいたのです。
そんなこと、まったく意識していませんでした。無意識という領域から、「嫌いだ」という思いが、まるで潜水艦が海面に浮上するように現れました。
続いて、「僕は本当は、あいつが大嫌いなんだ」という思いも浮かびました。やっぱり自分で、自分の発見に驚きました。僕は、自分で自分の本心に驚きました。
南の島でも、最初の数日間は、本当の意味ではリラックスしていなかったと思います。当面の仕事のことを考えながら、観光スポットを訪ね歩いていました。
本当に心と体がゆるんだ時、意識の底から浮上したのは、「私にとって仕事とは何か?」という根本的な考えでした。
それは、南の島に来て、8日目のことでした。
私は20代の頃、一人で海外を旅したことがあります。
全く誰も知らない、ガイドブックにも載っていない場所に行ったのは、1988年6月の
フィンドホーンが初めて。インバネスの近くにフィンドホーンという、妖精に導かれて作られたコミュニティがあるという情報だけを頼りに行きました(笑)。当時のフィンドホーンは今よりもずいぶんと小さなコミュニティで、日本人でそこを訪れたのは私が2人目だったと記憶しています。孤独でしたが、スコットランドの田舎は人も親切で、寂しいとは感じませんでした。
「本当の孤独」を感じたのは、その前に滞在していたロンドンでした。その時のロンドンは、6月だというのに毛皮のコートやセーターを着ている人がいるくらい肌寒く、Tシャツに半パンで空港に着いた私は、あまりの寒さに旅行気分が一気に吹っ飛びました(苦笑)。しかも、ガイドブック片手の一人旅なのに、ロンドンは道が複雑で、歩けど歩けど目的地に着かず、毎回、迷子(涙)。通りの名前は建物の2階あたりに書いてあり、どこを歩いているのか、まるで分からず、人に道を聞いても、首を振られるばかり…。
寒い、雨が降る、道に迷う、水が合わず顔中に吹き出物、それに小銭がやたら厚くて重い(コインの種類が分からないから、お札ばかりで払っていたらお財布がすぐにずっしり重くなりましたー)。
ロンドン滞在中は、安いB&Bを見つけては飛び込みでその夜の宿泊を交渉して荷物を移動する、ということをやりました。顔中が吹き出物だらけとなった痩せっぽちの東洋の女の子の出現にフロントの人はちょっと遠巻きな感じで、私が話す片言の英語を苦笑されたりウンザリされたり…。なんとも、惨めで寂しくて、そして孤独でした。そのロンドンの寂しさから逃げ出したくて、どこかにあるかも分からないフィンドホーンを目指したくらいです。
今だったら、海外に一人で行っても、スマホで写真を撮っては、すぐさまInstagramやFacebookにあげて、海外にいながら、日本の友人とのやり取りに心も時間も使っているでしょうね。でも、当時は、国際電話の通話料はバカ高く、手紙は日本に到着するまで1週間かかりました。
もう30年以上前に行ったイギリスですが、その後、何度も行った海外よりも、この時の一人旅のことは覚えています。残念ながら、この時の旅行は鴻上さんが旅した南の島と違って、リラックスとは程遠く、毎日が必死でした。それでも、誰も知らない街に着いて一人で歩きまわった経験は私を強くしたように思います。そして、自分の小ささも勇気のなさも、嫌という程、実感しました。
スマホを開けば、誰かとすぐに繋がれる今だからこそ、あえてそれをしないで旅に出てみる・・・。
自分と出会う究極に贅沢な旅になるかもしれません。