私の平家物語ーその7
2020年 08月 12日
奄美空港から車で港まで2時間半。さらにフェリーで30分。羽田から加計呂真島に行くには半日がかりという遠い島ですが、私はここに半年の間に3度、訪れています。
加計呂麻島は、弘美先生が戦後荒れ果てていた高千穂神社の再興のため、20年という年月をかけて地元の方とご縁を結び、1年に何度も訪れながら神社の掃除、ご祈祷を重ねていらっしゃいます。私もそのご縁で加計呂麻島を訪れました。
加計呂麻島には、壇之浦の戦いのあと流れ着いた平資盛が祀られている大屯神社と、南に渡ってきた源為朝(!)が現地の女性との間に子供を作り、その子、実久三次郎や家族を祀ったとされる実久三次郎神社が島の東と西にあります。
つまり加計呂麻には、その小さな島の東と西に平家と源氏の神社、2つがあるわけです。
島の地図はこちら
大屯神社(おおちょんじんじゃ)
1185年、壇ノ浦の戦いで破れた平家の落人たちは、奄美諸島へ逃げていった。平有盛(ありもり)、平行盛(ゆきもり)、平資盛(すけもり)ら3人は、最初は喜界島へ逃げ、平有盛は奄美市名瀬浦上を制圧し居を移し、平行盛は龍郷町戸口を制圧し居を移した。平資盛は加計呂麻島の諸鈍を制圧し居を移したという。大屯神社はその平資盛を祭った神社だ。
重要無形民族文化財に指定されている。「諸鈍シバヤ」という祭りもここで行われる。 諸鈍シバヤの由来は、土地の人々と交流を深めるために教えたのがはじまりとされている。
http://shimanosanpo.com/churajima11/kakeroma00/ohsumijinjya/index.htm
平家方の大屯神社は、ご祭神が応神天皇と神功皇后の八幡様。そして敷地内に平資盛のものとされるお墓があります。こちらの神社では、特に特別なことはなく、平家の供養と平家源氏の和合を望んでいることをお伝えして祝詞を上げさせていただきました。
事が起こったのは、源氏方の実久三次郎神社。
それほどの悪天候ではなかったのに、神社に着く頃には傘を差しても歩きたくないほどの土砂降り雨に。雨雲が行き過ぎるまで車の中で雨宿りをしていたんですが、そのうち、弘美先生が少し苦しそうな様相に。なにやらエネルギー的な作用があったらしい・・・。
私は神社に行く前に修験行者である弘美先生に九字を切ってもらい、もしもの時のためにエネルギー的な護身をしてもらっていました。もちろん弘美先生も自分に九字きりをしていましたが、それをもってしても強いエネルギーが来ていたようでした。
しばらく雨宿りをしていたら雨足が少し穏やかになったので、とりあえず神社に行くことに。そして本殿の前で、Tさんが代表して私たちがここに来た目的、源氏と平家の和合を望んでいること。そのためにこれから唱える祝詞と般若心経、真言を受け取ってほしいと伝え、祈祷を始めようとしました。
しかし、その神社のエネルギーに感応していた弘美先生から、するどく声が出ました。「いらぬ」と。
すぐさまTさんが、こちらの神社と日本の平安と発展のために…と言い換え、祝詞が始まったわけですが、いやはや、まさか「いらぬ」と言われるとは!
この時のメッセージはあいにく後半部分しか録音していませんでしたが、残っているのはこちらです。
「伝説のなかで義理も欠き、身を滅ぼした我ら一族ではありますが、歓迎の言葉とさせていただきます。よくぞお参りして下さいました。今生でこのようなお参りして下さる方々がいらっしゃるとは。ひと先ず御礼申し上げます。差し出がましくはありますが、次々とくる災難は私どもが出来る限りの力でお守り申し上げます。そのようにお伝えさせていただきます」
「今回、この地にあなた方をお招きしたのは私です」とも言われた記憶があります。その時「え?飛行機代も宿泊代もいただいておりませんが…」と思ったことを覚えていますから(笑)。
