最後の手紙 『人間の声』より
2019年 11月 02日
フランス アンリ・フェルテから家族への手紙(16歳11ヶ月)兵士たちが僕を連れにきます。僕の字はすこしふるえて、読みにくいかもしれませんが、それは鉛筆が短いせいです。死をおそれておびえているのではありません。気持ちは落ち着いています。ささやかな蔵書は、お父さんに。思い出のコレクションは、お母さんに。一生けんめい勉強した教科書は弟に。たいせつな日記は、愛しいジャンヌにおくります。僕のことを心にかけてくださるすべての人に、あとは感謝のことばしかのこっていません。僕は祖国のために死ぬのです。それでも死なねばならぬとは、きびしいことです。フランスが、平和と正義の国になりますように。みんなが、なによりも、ジャンヌ、君が幸せになりますように。永遠の愛をこめ、祈ります。神のそばで。千のくちづけをおくります。死刑にさだめられた16歳のアンリより。
日本 桔梗五郎から妻への手紙(35歳でルソン島で戦病死)日曜日の朝思うのは、おまえのこと。おまえのまつ毛にそっと触れて静かに抱いていたい。日傘をさし、青いプリンセスのワンピースを着たおまえの夢をみた。おまえは子を産んでからいっそう美しくなった。あくがぬけて、洗われたような、気持ちのよい美しさだ。出征で東京をたつとき薄化粧で床にすわって、あの時おまえは、涙をこらえ笑ってくれた。むしろさわやかに。おまえは笑うと美しい。歯が特別きれいだ。肌は、きめこまかくしまっている。豊かな乳房をもっている。広い広い母さんの胸だ。僕はおまえの胸の中で、子どものように眠りたいと、何度も考えたことがある。おまえのまるい腕を枕にして、静かにおまえに笑いかける。すると、おまえはあでやかに笑う。こんなことを考えていると、なつかしくてたまらなくなる。おまえは、たっしゃで暮らしてくれ。いつかきっと僕は帰っていく。美しいおまえのところへ。その時あの広い胸で温かく僕を抱いてくれ。待っていてくれ。八重子。
ソビエト イェフゲニー・ペトロフ(作家、1942年戦死)耐え難い、血なまぐさい一日が過ぎる。そしてまた、一日が始まる。砲弾のとどろきの上に日が昇る。私は、その日の出を美しいと認知する。美しいものだと考えているが、心に響いているわけではない。戦場に「美しさ」など有りえない。夜明けとおもに目の前の丘がオレンジ色に輝いた。いや、これは丘ではなく番号のついた高地だ。あの白樺も、地図には1本の印があるにすぎない。あの小川は境界線となり、森の緑は機関銃陣地に適した場所でしかない。戦争は自然から全てを奪った。とくにその香りを奪い去ってしまった。香りと呼べるものはもはやどこにもない。あるのはいつも同じ戦争の匂いだ。夜も、昼も、夏でも、秋でも排気ガスと火薬の焦げた悪臭しかしない。そして、平和の第一日目に、人々は自然がどんなに美しいかを再び思い出すことだそう。再び。
