『ラストバリア スーフィーの教え』
2018年 03月 07日
全く読んだり書いたりしなかったわけではないんですが、日々流れて消える情報やインスタントに発せられる言葉ではなく、出来るだけ熟考され推敲された文章に触れたいと、その間、せっせと本を読んでいました。
・・・ということで、しばらく本の紹介が増えるかもしれません。
『ラストバリア スーフィーの教え』は1976年にイギリスで出版され、日本でも10年以上前に出版されています。すでに絶版のようなので中古か図書館で見つけるしかありませんが、海外では古典として高く評価されている1冊のようです。
~スーフィーの師が主人公にいう台詞(88ページ)~
「すべては、常に準備だ」と彼は言った。「だから、それは答えではない。我々は今、来たるべき世界のために準備している。しかし、それがいつ来るかは、我々の手にあるのではなく、神の手の中にある。我々は常に準備のできた状態にいなければならない。準備とは、目覚めている技のことだ。
もし君が目覚めていれば、いつの日か、真の世界を見るかもしれない。夢遊病者のように歩きまわっているならば、その世界に出会うことはできない。ほとんど世界中の人々は眠っているが、彼らはそれを知らない。
お前は眠っている、と書いてある本を読んでも、目覚めることはできない。教師にお前は眠っている、と言われても、目覚めることはできない。自分で目覚めたいと思った時にしか、目覚めることはできないのだ。
だから君自身の本質に出会うために、あらゆる下らないがらくたを切り捨てて、自分自身と向き合い始めなさい。
また、目覚めとは、何かの超常的体験の問題ではない。自らを霊能者あるいは超能力者と言っていながら、こうしたことを何1つ知らない人々よりも、ずっと深く眠りこんでいる連中に何人も会ったことがある。こうした勘違いしている人々は、何かの”ガイド”に出会いさえすれば、自分自身をみがくことを免除されると思っている。
彼らはもう1組の余計な錯覚によって、自らの痛みをおおい隠しているにすぎない。
唯一、なすべきことは、神の全体性を知ることだ。そうすれば、すべてが与えられる。しかし、神の1部、唯一の真実の1つひとつの側面を追求しようとすると、その部分に捕らわれてしまい、全体性を見失ってしまう。
旅の途中で、花をめでるために足を止めると、探求の目的を忘れてしまって、そのかわりに、花と一緒にそこにとどまるかもしれない。確かに花は美しい。しかし、君は何を望んでいるのかね? 自分の目標や動機を十分に注意して見守りなさい。自分が何をしているか、また、なぜそうしているか、よく見なさい。自分の自我ではなく、自分の真の本質を絶えず探し求めるのだ。わかったかね?」
~師が主人公に教えた演習(131ページ)~
そして彼は私に「空間を逆にする」演習を教えてくれた。
これは、じっと静かにすわって、胸の中心にすべての意識を集中し、少しずつ、次のことに身をゆだね、気づいてゆくという練習だった。
見るかわりに、見られているということ、聞くかわりに聞かれているということ、触れるかわりに、触れられているということ、味わうかわりに、自分は神のための食物であり、味わわれていること。
「だから、自分をおいしくしなさい」と彼は言った。「最後に自分が呼吸されることを許しなさい。信頼と、神、すなわちすべての源の前では、じぶんは無力であるという悟りに、完全に自分自身をゆだねなさい」
~以上、抜き書き終わり~
自分は神の食物として美味しい存在か、目覚めのための探求にどれくらい時間と意識を使っているか・・・。何度も自分に問いなおしたい質問です。