神ごとはエクスタシー
2016年 12月 13日
最近、行者でもある山口弘美先生とお会いすることが多いので、弘美先生から聞いたお話です・・・
ちなみに、11月30日の夜に開催した弘美先生のお話会の内容は、テープ起こしして若干読みやすく構成しなおしたあと、テンプルのインタビューコーナーでご紹介予定です。先日アップした木村聖子さんのお話しも不思議話が満載だったので、不思議系が2回続くことになりそうです・・・。
さて、修験道の行者って、いったい何をしている人なんだろう?と疑問を持たれる方も多いと思います。修験の山は日本各地にあり、その山、その山で個性もあり、修行の方法や考え方も違うと思いますし、私が聞いた話によれば・・・ということなので、これがただ1つの正解、ということではなく、こういう考え方や姿勢もあるんだなというふうに受け取っていただければありがたいです・・・
さて
私が弘美先生に伺ったなかで印象に残ったお話しは、
行者は祈りの人である、ということ。それも自分のために祈るのではなく、人のために祈り、その祈りを人のために使える人である、ということ。
どういうことかというと、例えば、重い病気の方がいらしたとき「その人のために般若心経を1万巻あげるので、その1万巻の祈りを、その人の癒しに使ってほしい」と神様にお願いすることがあるんだとか。
また日々祈ることで、その祈りを自分の内側に溜め、何かあったとき、そのためた祈りの力を法力に変えることができる。
私たちのように素人も、お経にしろ、何かの真言にしろ、なんとなく唱えるのではなく、方向性を持つとよい。私は弘美先生からお話しを伺って、般若心経や真言を唱えるときには「これから唱える般若心経(真言)を万物万象の育みとなりますよう(日本の平安のために、**地震で亡くなられた方の鎮魂のために、先祖供養のために・・・など)お使い下さい」といった言葉を言ってから唱えるようにしています。漠然とした祈りより、使い道や方向をはっきりさせると、自分の力にもなり、かつ、何かのためにその祈りが使ってもらえる(かもしれない)、というのは安心感も生まれ、いいですよ。
ともかくも日頃から祈りを自分にためておくことが大事、だそうです。
また、日本人には馴染みのある般若心経は、短くても、1文字、1文字に力があるので、うろ覚えで順番を間違えようとも、途中で止めようとも、言葉を発した分だけ力になっていくお経なので、普通の人が唱えるお経としては、般若心経はオススメ、ということでした。
ケイシーを学んでいる人やクリスチャンであれば「主の祈り」が良いですよねー。
神様に近い山で修行をすることで、もちろん修行は早く進みます。でも、神様と決めたことをコツコツ家で実行する。例えば、般若心経を1日100巻あげると決めて神様と約束したなら、1日100巻唱える。100巻は無理でも10巻なら出来ると「10巻あげる」と決めたなら、その10巻を続ける・・・。ともかくも神様と約束したことは続ける。それが力となっていくので、家にいようとどこにいようと修行はできる、と云われていました。
行者は印を組んだり、法力を使える人でもあるわけですが、同時に、神と感応できる身体を持っている人でもあるそうです。
修験の修行は、つまり「神と感応できる身体づくり」でもあるわけですが、そういう身体になると、例えば神社仏閣に行くと、神様のエネルギーを感じ、そのエネルギーが身体を通り抜けることがある。そして行が進むと、その体内のパイプがだんだん太くなっていくのも感じるそうです。そういうときは得も言われぬ、エクスタシーとも表現したいような体感があるそうで、そのエネルギーでさらに心身の浄化が進んでいきます。
例えば、弘美先生と一緒にご神事をしているTさんは、奄美の加計呂真島の高千穂神社復興のために、加計呂真島に住み、1年間、毎日、高千穂神社に通って祈り続けた人なのですが、「たまには休みたいとか、サボりたいとか思わなかったですか?」という私の怠慢な質問に「毎日通っていると、ときに神様からご褒美のようなエネルギーが降り注いでくる。あれを知ったら、とても休もうという気持ちにはならないですよー。あの感覚はまさにエクスタシーですからねー」と云われてました。
瞑想を長くやっていたケイシー財団の知り合いも同じようなことを云ってましたし、ソマティックのマイケルさんもリトリートの食事の際、その食卓に大きな愛のエネルギーが降り注いでいたのを感じて、一人、感謝と感動の涙を流されていたことがあります(一緒にいた私たちには感じなかったんですが・・・)。
神職につく際、女人禁制、男子禁制が固く律せられているところもありますが、もしかしたら、そういう立場の方は、人間の異性(時に同性)との接触で得られる快感以上のものが感じられているのかもしれませんねー。こればっかりは経験してないので、全く想像もできませんが、神様との交流以上に素晴らしい感覚はないでしょうから、あとは実践(行)あるのみ、ですかねー。