若松英輔さんの『イエス伝』
2016年 01月 27日
若松さんはカソリックとして、子どもの頃から教会に足繁く通っていたそうです。その若松さんが語るイエス伝、もしかして、ちょっと堅苦しいイエス像なのかしら?と思っていたら、期待は良い方に裏切られました。
本に帯はこう書かれています。
『私のイエスは、「教会」には留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄り添っている。
福音書は、異教徒のためにも書かれたのではなかったか』
私はクリスチャンではありませんが、友人に誘われ、何度かプロテスタントの日曜礼拝に行ったことがあります。うち1つはキリスト教徒として有名だった作家が生前通っていた教会でした。
日本ではクリスマスと結婚式だけは教会で・・という人も多いので教会に対してはポジティブな思いの方が過半数だと思います。が、私が日曜礼拝で感じたのは「区別される側の哀しみ」。
入口では教会の皆さん、とてもウエルカムなのですが、置いてある聖書やマリア信仰で区別され、洗礼を受けたクリスチャンかどうかで区別され、その教会の信徒であるかどうかで区別され、2重3重に私はその教会から排除された気がしました。
余談ですが、あるとき、その日曜礼拝が終わったあと、そこの青年団の人たちと喋る機会がありました。面白かったのは、マリアの処女懐妊とイエスが手元にあった5つのパンと2匹の魚を祝福し、5000人の人が満ちるまで増やして与えた、という聖書のお話しを真実だと思っていたのは私だけ。キリスト教徒の皆さんは、架空のおとぎ話と思ってました。なーんだ、ここでイエスの奇跡を信じているのは私だけなのーとビックリもし、なんだかとても皮肉な感じがしたんですが、きっと教会ではそういうことになっているんでしょうねー。
話を元に戻しますが、若松さんは『洗礼』という章でこう書かれています。
理由は何であれ、入信することができない、あるいは祈ろうとしても祈ることができない、救われないと苦しむ人を横目にしながら、自己の救いだけを求めるのが「宗教」であるなら、それはすでにイエスの生涯が示していることとは著しく乖離している。(中略)
洗礼に意味がないのではない。パウロも回心のあと、アナニアという人物から洗礼を受けている。洗礼は、今日も秘跡であり続けている。しかし、パウロが明言しているように、洗礼の有無は、救済とは関係ない。パウロにとって救済とは内なるイエスを発見することだった。もし、洗礼の有無に固執するならば、大多数の洗礼を受けていない人々が救われないことをよしとすることになる。自分は救われ、ほかの人々が業火にさらされているのをだまって見ていることが、果たしてイエスの生涯に続く者がとるべき態度だといえるだろうか。
ここには区別も排斥もありませんね。
もう1箇所だけ、若松さんの『イエス伝』から一部を抜粋してご紹介します。
イエスが神殿の境内で商売をしていた人たちを追い払い、両替商の台を倒してお怒りになったシーンについてです。
この出来事は、これまで聖書学者によって様々に解釈をされ、神殿を清浄に保たなければならない、人間の欲を排除し、神の住まう祈りの場所にしなければならない。そのような解釈が一般的なようです。
ここで若松さんは、中世ドイツの神秘家エックハルトの言葉を引用しています。エックハルトはあるとき、こう語りました。
『聞きなさい、次のような人々は皆商人である。重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであっても善きわざならなんでもなす人々。
このような行為とひきかえに気に入るものを主が与えてくれるであろうとか、その代償に彼らの気に入ることをしてくれるはずだと考えているかぎり、これらの人々はすべて皆商人である。(「魂という神殿について」)
この言葉は説教の1部である。そこに居合わせた人々は少なからず驚いたに違いない。彼らはこの話しを聞く直前まで祈っていた。より精確にいえば、自分は祈っていると信じていた。そうした人々を前にしてエックハルトは、たとえ、善き行いであったとしても、それと引き換えに神に何かの義務を課そうとする者は、誰もが「商人」であり、神殿から追放されるというのである。 (中略)
願いと祈りを分けてみる。何かを期待して行う営みを願いだとする。願いとは、いわば魂という「神殿」に居座る両替商であり、商人だとエックハルトは考える。熱心に願えば願うほど、魂は喧噪にまみれ、輝きを失って行く。魂に願いの声が鳴り響く。そのとき、真の主人である神は沈黙する。願いが祈りの顕現をさまたげる。
魂が願いで充満しているとき、祈りは起こらない。祈りとは、まず人間が魂の次元での沈黙を実現することであり、人が神のコトバを聞くことである・・・』
私たちが祈りだと思っている多くが、神との取引を願う商人のそれ、になってやしないでしょうか。
若松さんは、さらにこう書かれています。
『人間に促されているのは願うことではなく、祈りである。祈りとは何かを獲得しようとすることではなく、どこまでも受容することである。祈りとは、自らの胸を開き、魂に射し込む光の窓と化すことである。さらにいえば、徹頭徹尾復活のイエスの声を聞くことである』
イエスの生涯について何か読みたいと思われているなら、この本は良書です。もちろんあわせてケイシーリーディングに基づいた『キリストの秘密』もオススメですが、この2冊を続けて読んでも、それほど違和感はないはず。
ケイシーリーディングには、主、イエスについての記述がたくさんあります。今年、津の赤塚高仁さんが日本のアチコチで聖書講座を開催されています。これからはじめて聖書をひもとく、というに方も是非。