メロドラマを生きない-1
2015年 09月 16日
吉福さんのワークショップでは、どういうワークがされていたのか、参加者に何が起こったのか、それに対して吉福さんはどう対応されたのか・・・etc.、天外さんのクチから話されるその数々のエピソードは、かなりぶっ飛びで、ビビりで小心者の私には絶対無理!と思うようなものばかり。
吉福さんのお話を生で聴きたいと思いながらも、そのワークの当事者にはなりたくない、という相反する気持ちが起こり、吉福さんのお話は、もっぱら本や雑誌で読むだけでした。
そんな数年間が過ぎ、ようやく2013年に吉福さんの講演会に申しこんだものの、その講演会は、結局、吉福さんご病気で中止。直接お話をうかがうチャンスがないまま、逝ってしまわれました。
今回紹介するこの本は、吉福さんが日本でワークをする際(拠点をハワイに移されていたので)、アシスタントをされていた方々が語る吉福さんの姿と言葉の数々。吉福さんがどのように人やクライアントに接していらしたのか、何をしようとされていたのか…。とても平易な言葉で綴られています・・・。
過去、何冊か読んだ吉福さんの対談のなかで、私が強く印象を受けた1つが『メロドラマを生きない』ということ。私自身、その言葉を知ったことで、自分のメロドラマに気づけました。心のクセで、いつものメロドラマに入りこんでいる自分を俯瞰もしてきました(だからといって、すぐにその心のクセは直らないんですが。。。)
『メロドラマ』の部分を少しご紹介します。
~72ページ~
「私がこんなに苦しいのはなぜだろう?」と人は思い悩み、その原因をつきとめようとします。原因が分からないのは不安です。
彼/彼女は、心理学を読みあさるようになるかもしれません。そしてそこで「答え」らしきものを見つけます。
「そうか、私の家は機能不全家族だったんだ。そして私はアダルトチルドレンだったんだ。だから、こんなに苦しいんだ」、「なるほど、僕は、精神的暴力を受け続けたために、自尊心を失ってしまったんだ」などという「答え」をみつけるかもしれません。
やがて彼/彼女は、自分達の不幸の原因を機能不全な家族に、主に両親に還元します。父親があんなにがんこで高圧的でなかったら、母親がもっと無条件に僕を受け入れていれたのならば、僕はこんなに不幸にならなかったはずだと思うようになります。それは、一面正しいかもしれません。
しかし中には、いつまでも母親/父親を非難し攻撃し続ける人がいます。いくら非難しても、そんなに攻撃しても、それを続けているだけでは彼/彼女は幸福になることはありません。そんな人達は「メロドラマ」を演じてしまっているのです。(中略)
メロドラマを演じてしまっている人達は、実は、自分の母親/父親とのこれまでの関係に執着しています。自分が「メロドラマ」の主人公を演じ続けるためには、自分はあくまで被害者であらねばならず、そのためには、機能不全家族と子どもを支配・コントロールしようとする母親/父親が必要なのです。
そうした意味で、彼らは自分の母親/父親に依存しており、親から自立ができていないと言えます。(後略)
~104ページ~
吉福さんは、だれもが、メロドラマの主人公になりうるし、ドラマに入らざるをえない状況というものがあるといいます。Aさん(この前に解説が書かれている)は、「機能不全家族の中で育ち、そのために自分の感覚・感情を見失い、人間関係も上手くいかなくなってしまった」というドラマの主人公になったのです。(中略)
吉福さんは言います。「メロドラマの主役からサブに、サブから脇役に、脇役から通行人に。最後はドラマの脚本家になっていく。そうすれば、メロドラマは放っておいても終演する」と。自分の人生の脚本家になったとき、人は初めて能動的に自分の人生と関わることができるということです。
Aさんの場合、自分が特定のドラマの中で機能不全家族の被害者であるアダルトチルドレンとしての自分を位置づけてきたわけです。まずは、そこに気づき、そこから抜け出す決意をし、自分自身がドラマを書き換えていくとき、Aさんは、メロドラマから抜け出し、新たな世界に踏み出していけるでしょう。
おそらく、生きている限り、自分のメロドラマを持っていない人はいないと思います。誰もが何かのメロドラマの主人公になっている…。
でも、そのドラマのどこに自分が立っているのか。そこに気づくだけでも大きく変わり始める何かがある気がします。過去の呪縛から脱却したり、これから自分はどんなドラマを生きたいのか、みつめ直すきっかけにもなります。