キリストの墓(青森、新郷村)探訪
2015年 03月 16日
今回は、赤塚高仁さんの講演会参加のために青森入りしていた天下泰平ブログの滝沢泰平さん、イスラエル旅行に一緒に行った友人と3人で訪ねてきました。
Wikiによるとキリストの墓の由来はこうです。
1935年(昭和10年)8月初に、鳥谷幡山が1934年(昭和9年)10月に見つけた大石神のピラミッド確認のため青森県戸来(へらい)村(現在は三戸郡新郷村大字戸来。)を鳥谷とともに訪ねていた新宗教団体の教祖、竹内巨麿(たけうちきよまろ)は、2間~3間の長方形の盛り土をみると立ち止まり、それが古文献を一人で調べた結果により、そこに統来訪神と書いた目標と前の野月の二ツ塚に「十来塚」と書くよう村長に話したという。
この後竹内巨麿は竹内文書に、「イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。五色人へ遣わし文」にはじまる記述や「イスキリス・クリスマス」の遺言があるとし、イスキリス・クリスマスはゴルゴダの丘で処刑されず、弟のイスキリを身代わりにして日本に渡来して死に、その墓が「十来塚」であるとする。このイスキリス・クリスマスがイエス・キリストであり「十来塚」が「イエス・キリストの墓」であるという。ただし、竹内文書は多くの研究者から偽書と断定されている。
この後「古代史書研究会」が来村、戸来村の村名は、ヘブライに由来するとした。 アメリカ在住の川守田英二が現地の伝承歌であるナニャドヤラがヤハゥエをたたえるヘブライ語の歌であるという書簡を戸来村に送った。
また日本において「桔梗紋」と言われるこの村の旧家に伝わる家紋は五角の形であり、ユダヤのシンボル六芒星である「ダビデの星」と酷似しているとしイスラエルの失われた十氏族やイエスとの関わりを指摘する説もある。 現在でも戸来小学校の校章はダビデの星と同じ形の籠目である。また、戸来村では子供の額に健康祈願などの意味合いを込めて墨で黒い十字を書く風習があったという。
この土地で、昔から『ここにはイスラエルでイエスと呼ばれた賢人が移り住み、亡くなったという言い伝えがあり、そのように護られてきた』ということではなく、竹内巨麿が自己調査した結果、彼によって、この土盛りがイエスキリストの墓であると断定されたことと、この2000年間、ここで不思議な癒しや現象が起こった、ということもなさそうなので、私自身はここがイエス・キリストの墓だとは100%思っていないのですが、地域に残る不思議な伝承が事実であれば、この土地に、かつてユダヤの風習を持つ人達が移り住んだのではないかなと思っています。
ちなみに一緒に行った泰平さんは、ここは女性的なエネルギーを感じる、マグダラのマリアにも通じるようなエネルギーではないかなと言われていました。もしかしたらイエスの家族(ケイシーによれば、聖母マリアは、イエスがある程度成長をしたのち、通常の夫婦生活を持ち、3人の子どもを授かったそうです)やその周辺の方々の子孫が、日本に渡ってきたユダヤの民の一群に混ざっていた、もしくは、その方々に引率されて来たことも考えられるかもしれません。
*イエスの妹弟に関するケイシーのリーディング
(問)イエスが生まれてからどれくらい後に、マリアとヨセフは結婚している普通の夫婦としての生活を始め、ヤコブと呼ばれる子供をもうけたのでしょうか。
(答)10年だ。 それによって、ヤコブ、娘(ルツ)、ユダを順にもうけた。5749-8
そして、例のいなくんによれば、ですが・・・
この丘の上に埋葬されている人(右側)、なんと、私の過去生の一人であり、友人の1人が、日本にわたったあとで結婚した前世の元妻・・・(信じなくていいですよ。私も、おとぎ話の1つとして聞き流しているので・・・)。
ホンマか?って感じですが、時々人を集めてツアーを組んでどこかに行くのが好き、一所に止まることができず、居を次々移してしまう、そして、過去生催眠をしたときのビジョンからすれば、大勢の人を引き連れ、移動の人生を送った過去生がどうやらあるらしいことを考えると、海外から日本に渡来してきた渡来人の人生の1つや2つ、私にあってもおかしくないかなと思ってはいます。そのうちの一人がここに埋葬されたのかどうかは別として・・・。
丘の上には十字架が2つ・・・
こんなにはっきり断言していいのかしら?と心配になってしまう案内板
イエスのようだと評判の泰平さん
流れのままに東に西に・・どうぞ旅を楽しんで下さい。
いつもワクワクしながら読ませて頂いています。