ネルソン・マンデラさんの独房を訪ねて
2013年 08月 11日
まず以下に書くことは、ロベン島のガイドをしてくださったトーザさんのお話を、私たちの旅のガイドさんが通訳して下さったもの。録音もメモもとっていなかったので、全て私の記憶をもとに書いています。多少の記憶違いがあるかもしれません。正確さに欠けることはご容赦下さい。
私が、自分は有色人種であり、差別を受ける側にいることを実感したのは高校生くらいの頃。
アフリカの方が日本に来た際「同じ有色人種がこんなにも経済的に発展しているなんて嬉しい」とコメントされていたのを読み、世界は「白人」と「それ以外」のたった2つに分けられており、日本人とアフリカ人は同じカテゴリーに入ることを知ったとき(ついでに、白人も、ユダヤ人かそうでないかに分かれたりしていますが・・・)。世界では肌が白いだけで、そうでない人の優位にたっているわけですね。
もし世界中の人が盲目で誰も目が見えなかったら、肌の色の違いや人種で差別や区別をする人は誰もいなくなってしまうんじゃないかと思うのですが、マンデラさんが27年間も刑務所に収容されていたのは、まさにその肌の色の違いから。
今も南アフリカの白人は全人口の1割弱。その1割の白人が、肌に色を持つ残り9割を支配していたわけですから、かなりのアンバランスと感情的な軋轢が南アフリカに存在していたことでしょう(今もなお残っていると思います)。
さて、
ロベン島の刑務所に入ってまず驚いたのはその独房の狭さ。四方を冷たい壁に囲まれた狭い独房の中で感じる圧迫感たるや、5分でもいたくなくなる感じでした。ちなみに、22.5cmサイズの私の運動靴で、横9.5足分、縦は8.5足分。数歩歩けば壁に当たります。
マンデラさんが収容された当時、独房にあったのは薄い毛布数枚と赤いバケツなど必要最低限のものだけ。しかも、午後3時~翌朝までは独房から出られなかったため、この赤いバケツをトイレとして使い、さらに身体を洗う時にも同じこのバケツを使わされていたそう。人間として、衛生面でも非人道的な扱いを受けながら、いったいどうやって、マンデラさんたちは高潔な精神を保つことができたのでしょう。
*南アフリカの実情が世界的な批判の的になり始めたことで、待遇は少しずつ改善されていき、後年はベッドや棚が入れられました。以下の写真は実際にマンデラさんが収容されていた部屋(初期の様子)。

さらに、反アパルトヘイトで捕まった同志といえども、黒人と黒人以外の有色人種では刑務所内には歴然とした差別もありました。例えば、食事は、黒人とその他の有色人種で量や内容を分けられ、黒人の食事は内容も量も少ない。衣類は、黒人は半ズボンで裸足、下着は無しで、黒人以外の有色人種には長ズボンと下着の配給ありといったような。成人した男性に半ズボンをはかせることで、さらに人間としての尊厳を低めるという目的があったそうです。

反アパルトヘイト運動が激しくなると、収容される囚人の数はどんどん増えてきました。マンデラさんも含め、囚人が増えればそれだけ国家予算を使うわけで、それならなぜ死刑判決を出さなかったのかという疑問も湧いてきます。トーザさんの答えは『殉教者を作らせないようにするため』。
特にマンデラさんなど国内外に影響力のある囚人が亡くなると、その死をもって反アパルトヘイト運動がさらに過激になることは容易に想像できます。それを怖れた政府は、囚人たちの尊厳をことごとくおとしめることで、自ら戦う気力を失ったり、精神的におかしくなって自滅していくことを狙っていたのかもしれません。
それにしても、1964年に収容されたビリーさんの記録によると、彼の罪状はサボタージュ。つまり「怠慢もしくは、すべきことをしなかった罪」。殺人でも窃盗でもなく、サボタージュの刑期が20年。もうメチャクチャとしか言いようがないです。

マンデラさんたちが強制労働されていた石切場。最初は、前方に小さく積まれている石あたりに岩山があったそうです。この石の小山は、解放された囚人の皆さんが後年集まり、和解のモニュメントとして積まれたもの。
石切場の左手にある穴の中は看守の目が届かなかったので、そこでよく囚人の皆さんが議論を交わしたそうです。マンデラさんが大統領になったあとで発布された憲法の法案も、ここでの議論が元になっているとのことで、最初の国会はここだとお話されていました。


その囚人が切り出した石でこの刑務所は作られました。自分たちが収容される刑務所を自分たちに作らせるなんて・・・と思いますが、それ以前は鉄板(トタンのこと?)の刑務所で冬は寒く夏は暑かったので、石作りになって過ごしやすくなったから嬉しかったと言われていました。
窓が高いのは、他の人とコミュニケーションが取れないようにするため。独房の部屋からだと窓が高すぎて、外は全く見えませんでした。窓の低い独房と高い独房とがあったことになります。

私たちのグループを案内してくださったトーザさん。マンデラさんと同時期にここに収容されていた方で、マンデラさんが解放されたとき、その車の運転手をした人でもあるそうです。

冷たい壁に囲まれ、人の温かさやぬくもりを全く感じられないなか、マンデラさんをはじめ、囚人の方々が、単にこの刑務所を生き抜いて来られただけではなく、人への優しさを失うことなく、未来の南アフリカに希望を持ち続けられたのは、強い信念があったからこそなのでしょうか?理想とする世界がはっきり見えていたからなのでしょうか? 人は弱い、でも同時にとても強い。そんなことをあの独房で感じました。
それにしても、とっくに政府にもの申すことを諦め、原発問題も含め、日本の未来のために戦うことを諦めつつある私たちと何が違うんでしょう? 明るい未来は見えないけど、何もしなくても、ぬくぬくとそれなりに今を幸せに生きていますが、命の危機が目の前にあるという事実は実は同じだったりして・・・。
映画『マンデラの名もなき看守』の予告編。この映画は、当時の刑務所内がどのようだったか、囚人の方々がどのような扱いを受けていたかがよく描けていると思います(現実はもっと厳しいものだったと思いますが)。
主人公の看守の主な仕事が、手紙の検閲で、不適切な表現部分を切り取っていましたが、実際、届いた手紙は、切り取られた窓だらけのものだったそうです。
マンデラさんが解放された直後の様子。27年間とらわれの身であったたとは思えない優雅さと品があることに驚いてしまいます。この穏やかさはどこから出てくるのでしょう?
マンデラさんがどういう人だったか、その人物像を知るには映画インビクタスの原作本をお読みになることをお勧めします。
以下は、マンデラさんが27年間の刑務所生活で自分を保つために心の支えにしていたという詩だそうです。この詩は、インビクタスのテーマでもあり、すべてを語っています・・・・。
私を覆う漆黒の闇
鉄格子にひそむ奈落の闇
どんな神であれ、感謝する
我が負けざる魂(インビクタス)に
無残な状況においてさえ
私はひるみも叫びもしなかった
運命に打ちのめされ
血を流そうと決して頭は垂れまい
激しい怒りと涙の彼方には
恐ろしい死だけが迫る
だが、長きにわたる脅しを受けてなお
私は何一つ恐れはしない
門がいかに狭かろうと
いかなる罰に苦しめられようと
私は我が運命の支配者
我が魂の指揮官なのだ
(ウイリアム・アーネスト・ヘンリー作)
マンデラさんはいま危篤状態がずっと続いているそうですが、マンデラさんのような高潔な魂が南アフリカから消えたあと、あの国はこれからどう動いていくのでしょう?