祈りには覚悟がいります
2011年 04月 27日
西郷隆盛のような風貌で、まさに、見た目は九州男児。でも、私たちが九州男児という言葉を聞いたとき、思い浮かべるような無口で硬派、「つべこべ言わず俺についてこい!」といった感じの男性ではなく、いつも何かしら冗談とダジャレを言っているような、とにかく楽しい方でした。
青島についたとき、奥様と娘さんも合流し、一緒に食事を食べたのですが、この奥様がまた明るく楽しい人。
きっと、いろいろあると思うのですが、それを明るく前向きな心で対処していらっしゃいます。
ご主人の鬼塚さんが、2年間、神官になるための修行をしなさい、とある霊能者を通じてメッセージを受たときも、「神の道にいくなら、神様がなんとかして下さるでしょう」と、生活費はどうしよう?といったようなことは全く心配しなかったそうです。
毎朝、天照大神に「私をあなたの手足として働かせてください」といった祈りを捧げているそうなのですが、この祈りの言葉は、決して気軽に言えるものではなく、自分に対してのコミットメントや覚悟がいりますから、さすが鬼塚さんの奥様!と心から感心してしまいました。
ケイシーのリーディングでも、同じような祈りのことばがあります。
以下は「神の探求」の第一章の祈りの言葉ですが、私にとっては、この祈りの言葉は実は今でもハードルが高い・・・。
わたしの意志ではなく、おお主よ、あなたの
御意(みこころ)が、わたしの内に、
わたしを通して行われますように。
わたしがさまざまな形で接するすべての人に対して
わたしを今日、いま、祝福の水路としてください。
わたしが(心の奥深くに)入るときも、(そこから)
出るときも、いつもあなたがわたしに望まれるものと
調和していますように。
あなたが呼ばれるとき、私は答えます。
「わたしはここにおります。どうかわたしを遣わし
私を用いてください」(262-3)
心の中で、なんの躊躇も感じることなく言えたり、アファメーションの言葉と自分の心を一致できるようになるまで、私には長い長い時間が必要でした。実のところ、いまでも時々躊躇を感じることがあります。
テンプルを始めた頃、「神の探求」のスタディグループを自宅で開催していたんですが、霊的に自分を高めようと決意したとたん起き始める様々な「え~?そんなのあり?」といった出来事。まさに自分の心根の弱さを鍛えられるような精神修養・・・。
霊的な道というのは決して、「いことばかりが続いて、いい人ばかりと会って、明るく、楽しく、ふわふわ甘い人生」が始まるのではない、ということをしみじみ感じたものでしたが、たとえ1分の祈りの言葉でも、人生全体にその言葉通りの約束や、責任が課せられるに違いない、と私は感じています。
その責を負うためには、何が起こっても逃げずに引き受ける、すべてを魂の学びとする、という強い決意や覚悟が必要。もちろん「**してほしい、**が欲しい」という祈りもあって、そう祈ったらそれを得た、ということもあるでしょうが、それはもしかしたら、祈りというより、引き寄せのパワーかもしれません。
「神の祝福の経路になる」「神の手足となって働く」ためには、その言葉どおりに生きるということ。祈って終わりではなく、祈ったらその通りに行動すること。
いま、さかんにアチコチで「東北震災の1日も早い復旧をお祈りしています」と書かれていますが、祈ったら行動。祈りも大事。でも、同時に行動も大事っていつも思いながら、この言葉を読んでいます。
第二次世界大戦の前にとらえたリーディングで、ケイシーは、ほんの一握りでも、祈りその言葉のとおり生きれば戦争は回避できると述べました。
「・・・言葉としてのみならず、汝が日々に汝の同胞に会うその仕方によって。なぜなら、ここに集まった64名の人々が祈り、そのように生きることで、汝らがそれを望むならば、アメリカを侵略から救うことができるからである」3976-25
祈りにふさわしい生き方をするという覚悟。
それが「祈り」を現実化する一番の秘訣じゃないかなと思います。