2010年4月11日 メジュゴリエーアッシジツアー4日目
2010年 04月 12日
あぁ、もう今日で4日目なんですね。
今日が何日で何曜日かなんてわからないうちに時間が過ぎていきます。。。
今日は明け方から雨足が強く、午前中に予定されていた十字架の丘までの登山が中止。
私は目覚めたときの雨の様子で「今日の山登りは中止だ~、朝はゆっくり過ごせる!」って、行かない気100%で集合場所のロビーに降りたら、なんと、ほとんどの参加者は雨にもかかわらず、行く気満々で仕度をして待っている。近くのお店で雨がっぱまで買って・・・。
しかも徳江さんまでいく準備をして待っていたのにはビックリ。
結局、ガイドさんが雨の日の登山は危険、誰か足を挫いたりしては大変とのアドバイスに、午前の予定は兄の講演会に変更。前夜も兄が1時間ほど「聖母マリアからのメッセージ」を書いた菊谷さんのエピソードや聖母マリアについてのケイシーリーディングについて講義をしたので、2日続けての兄の講演となりました。
今日のテーマは、人生にイエスを招き入れる・・・といったようなものでしょうか?
講義とランチのあとは、薬物常用者の更正施設を見学。
最初、なんでここがツアーのなかに組み込まれているんだろうと不思議な気持ちでしたが、薬物中毒から抜け出せない人たちや、街なかをうつむいて歩いている人たちを救いたいという思いで、何年もかかって施設を設立したイタリア人尼僧の一貫した祈りと、この施設の入所者の体験談を聞いて、みな深く感動。
現在、世界中に60箇所ほど、ここと同じような施設ができているそうですが、すべて篤志家や一般の寄付で運営されており、このメジュゴリエの施設だけでも90名の男性が1日3食十分食べていけるだけの寄付が集まっているそうです。
前日の孤児院の人もそうでしたが、施設の収入源についてご質問すると、異口同音に返ってきたお返事が「神の摂理」。
キリスト教文化では、収入の1/10は寄付をする、ということが奨励されています。
実際、アメリカ人の夫を持つ友人が、こんなことを言っていました。
いわく、経済的には豊かな収入があるにもかかわらず日ごろ家族の生活は質素。妻にも高い洋服は買ってはくれないのに毎年ご主人は「多額」とも思える寄付をしている。「そんなお金があるなら私にも使って」と思うこともあるらしいですが、友人のご主人もその家族も、日ごろ教会には1度も行かない人たちなので、富めるものはその一部を分ける、ということが精神的な文化として心の根底に根付いているのかもしれません。
今回私たちにご自身の体験をお話下さったのはアメリカから来ていた二人の男性。
「ここは薬物中毒者というだけではなく、人生に迷っている人が来ている。
カウンセラーや精神科医や医師が世話をするのではなく、入居者同士が人間同士の付き合いのなかでお互いを癒している。入居したら24時間つきっきりで、相手のことだけを見て世話をする。
麻薬に手を出すような人は、それまでの人生で本当の友人を持ったことも、人間同士の心のふれあいを持ったことがない。だから入居者は、ここに来て人生はじめての友人を持つことになる。入所した直後、まだ心を閉ざしている人の世話をするのはとても大変。世話をする側の人間も忍耐と信頼を学ぶことになる」
そんなお話を説明してくださいました。
お二人ともいっけん爽やかな好青年。かつて彼らが麻薬中毒であったなんて信じられない思いですが、物質的にはメジュゴリエよりはるかに富める国、豊かな国であるアメリカから、この国に来て、しかもテレビも娯楽もなにもないような施設で「いま自分は幸せで満たされている」というのは、ある意味とても皮肉な感じがします。
必要なものがあれば祈る。ときには朝2時に、聖母マリアがご出現になったという青い十字架の前に行って祈る。祈りや信仰がここの生活の中心である。祈りたくない人は祈らなくていいけれど、ここにいるとだんだん祈りたくなってくる。
そういった生活を送られているそうです。
施設見学のあとは、午前中に行けなかった十字架の丘まで登山した参加者もいれば、教会のミサに参加した人たちも・・・。
私はホテルではずっとネット接続ができなかったので、近くのネットカフェのようなお店でメールを受信したりブログを書いたりして最後の午後を過ごしました。
ここメジュゴリエは、教会と聖母マリアのご出現の丘と、立ち並ぶ土産物屋のほかは何もない場所。
菊谷さんはここに40日間も滞在していたそうですが、いったい40日間、何をして過ごしていたのかしら?
と思うのは私がまだまだ観光気分なのかも。ここは、祈りと自分に向き合うための土地なのかもしれません。
幻視者の方のお話で印象的だったことが1つ。
聖母マリアは毎日同じ時間にご出現になるわけですから、その時間になったら指定された場所に行き、ご出現を待っていればいいのかと思っていたら、そうではなく、やはりその前にロザリオの祈りを行い、ある種の「場」を形成しておく必要があるそうなのです。
幻視者の方々は、日々の祈り、水曜日と金曜日はパンと水だけの断食を欠かさず実践されていますが、それでもやはり聖母マリアのご出現には祈りの力がそこに必要なのでしょう。
聖母マリアがご出現になるとどういう空気感になるかというと、廻りの何もかもが消え去り、聖母と自分の二人だけの世界になる。おそらく通常の時間さえも消えてしまい「永遠」がそこに存在しているのではないかと思います。
そして、聖母がお帰りになると、また廻りのものが見え始める。
そんな感じなのだそうです。
ここに来る前、私は、聖母マリアのご出現の地に行ったなら、何か感じたい、何か聖母マリアの残像のようなものを感じたい。そんな「欲」のようなものを実は私は持っていました。
ですが、このエピソードを聞いてしまうと「あ、私にはまだその準備ができていないな」と。
人が得ているものを「だったら私も」って願ってみたところで、日ごろの自分の生活を振り返れば、その準備が整っていないことは私自身が一番わかっています。なぜルルドもファティマもメジュゴリエも、聖母マリアのご出現は子供たちの前だったのか、その理由がこのエピソードからも納得できました。
普段の私たちがいる世界は、物質的な欲と垢にまみれた世界ですから、そういう場には聖母マリアが現れるのはとても難しいのではないかと思います。ご出現には、やはり清らかな心と魂を持っている人がつくる「聖なる場」が必要なのでは? そんなことを感じました。
昨日、私はご出現の丘の上にある聖母マリアの像の前で「あなたがもうこれ以上の血の涙を流さないでいられるような生き方を、私が送れるようお導きください」と祈ったのですが、その前に、私は、すでに自分が知り、わかっていることを実践することから始める必要があります・・・。
ご出現の丘に行ったときはまだ観光気分だったので何も感じなかったのですが、このことに気づいてからは
かなり自分に恥じ入ってしまって、今の自分では聖母マリアに顔向けできないなと感じました。いまの私では聖母マリアは血の涙を流されるのは無理もないと心の底から思います。
教会の中や庭にも、美しい聖母マリアの像があったのですが、実は1度も近けないまま教会を後にしました。
今度、いつまたメジュゴリエに来れるかわかりませんが、次回、そのチャンスがあったときにはその教会の聖母マリアの前で「前回よりましな人間になりました」くらいはご報告したいものです・・・。
明日は、国境を越え、クロアチアのドブロブニクに行きます。
イエスの像の足から水が滲みでているということで、多くの人がその水をハンカチでふき取っていました。