毎日がエドガー・ケイシー日和 ケイシーグッズ専門店テンプルビューティフル店長が世界を飛び回りながら、今を健康的に生きるヒントをお伝えします。

毎日がエドガー・ケイシー日和

カテゴリ:おススメBOOKS( 105 )
メロドラマを生きない-1
日本にトランスパーソナル心理学を紹介した第一人者、吉福伸逸さんの名前をはじめて聞いたのは、元ソニー役員、天外伺朗さんのビジネス系の講座に参加したときでした。

吉福さんのワークショップでは、どういうワークがされていたのか、参加者に何が起こったのか、それに対して吉福さんはどう対応されたのか・・・etc.、天外さんのクチから話されるその数々のエピソードは、かなりぶっ飛びで、ビビりで小心者の私には絶対無理!と思うようなものばかり。

吉福さんのお話を生で聴きたいと思いながらも、そのワークの当事者にはなりたくない、という相反する気持ちが起こり、吉福さんのお話は、もっぱら本や雑誌で読むだけでした。

そんな数年間が過ぎ、ようやく2013年に吉福さんの講演会に申しこんだものの、その講演会は、結局、吉福さんご病気で中止。直接お話をうかがうチャンスがないまま、逝ってしまわれました。

今回紹介するこの本は、吉福さんが日本でワークをする際(拠点をハワイに移されていたので)、アシスタントをされていた方々が語る吉福さんの姿と言葉の数々。吉福さんがどのように人やクライアントに接していらしたのか、何をしようとされていたのか…。とても平易な言葉で綴られています・・・。

過去、何冊か読んだ吉福さんの対談のなかで、私が強く印象を受けた1つが『メロドラマを生きない』ということ。私自身、その言葉を知ったことで、自分のメロドラマに気づけました。心のクセで、いつものメロドラマに入りこんでいる自分を俯瞰もしてきました(だからといって、すぐにその心のクセは直らないんですが。。。)


『メロドラマ』の部分を少しご紹介します。

~72ページ~
「私がこんなに苦しいのはなぜだろう?」と人は思い悩み、その原因をつきとめようとします。原因が分からないのは不安です。
彼/彼女は、心理学を読みあさるようになるかもしれません。そしてそこで「答え」らしきものを見つけます。

「そうか、私の家は機能不全家族だったんだ。そして私はアダルトチルドレンだったんだ。だから、こんなに苦しいんだ」、「なるほど、僕は、精神的暴力を受け続けたために、自尊心を失ってしまったんだ」などという「答え」をみつけるかもしれません。

やがて彼/彼女は、自分達の不幸の原因を機能不全な家族に、主に両親に還元します。父親があんなにがんこで高圧的でなかったら、母親がもっと無条件に僕を受け入れていれたのならば、僕はこんなに不幸にならなかったはずだと思うようになります。それは、一面正しいかもしれません。

しかし中には、いつまでも母親/父親を非難し攻撃し続ける人がいます。いくら非難しても、そんなに攻撃しても、それを続けているだけでは彼/彼女は幸福になることはありません。そんな人達は「メロドラマ」を演じてしまっているのです。(中略)

メロドラマを演じてしまっている人達は、実は、自分の母親/父親とのこれまでの関係に執着しています。自分が「メロドラマ」の主人公を演じ続けるためには、自分はあくまで被害者であらねばならず、そのためには、機能不全家族と子どもを支配・コントロールしようとする母親/父親が必要なのです。

そうした意味で、彼らは自分の母親/父親に依存しており、親から自立ができていないと言えます。(後略)

~104ページ~
吉福さんは、だれもが、メロドラマの主人公になりうるし、ドラマに入らざるをえない状況というものがあるといいます。Aさん(この前に解説が書かれている)は、「機能不全家族の中で育ち、そのために自分の感覚・感情を見失い、人間関係も上手くいかなくなってしまった」というドラマの主人公になったのです。(中略)

吉福さんは言います。「メロドラマの主役からサブに、サブから脇役に、脇役から通行人に。最後はドラマの脚本家になっていく。そうすれば、メロドラマは放っておいても終演する」と。自分の人生の脚本家になったとき、人は初めて能動的に自分の人生と関わることができるということです。

Aさんの場合、自分が特定のドラマの中で機能不全家族の被害者であるアダルトチルドレンとしての自分を位置づけてきたわけです。まずは、そこに気づき、そこから抜け出す決意をし、自分自身がドラマを書き換えていくとき、Aさんは、メロドラマから抜け出し、新たな世界に踏み出していけるでしょう。


おそらく、生きている限り、自分のメロドラマを持っていない人はいないと思います。誰もが何かのメロドラマの主人公になっている…。

でも、そのドラマのどこに自分が立っているのか。そこに気づくだけでも大きく変わり始める何かがある気がします。過去の呪縛から脱却したり、これから自分はどんなドラマを生きたいのか、みつめ直すきっかけにもなります。




by hiroshimapop | 2015-09-16 10:13 | おススメBOOKS | Comments(0)
イニシエーション エリザベス・ハイチ著
エジプトが好きならこの本はオススメと、ソマティック・エナジェティクスのマイケルさんから勧められていた『イニシエーション』。

700ページ近くもある長編小説ですが、すいすい読めるので、あっという間に読了! 

あー、面白かった。

マイケルさんに勧められたときには翻訳本がなかったので、英語本で読み始めたものの、冒頭部分であえなく頓挫。ストーリーがエジプトに移る前にギブアップしてました。1960年に書かれた古い本なので、日本語になることはもう無いだろうなと諦めていたら、なんと、8月末にナチュラルスピリットさんから出てました。時々、有益な健康情報を教えて下さるお客さまからの情報で知ったんですが、今になって翻訳本が出るなんて、ほんと、嬉しい。

この本、是非ものです! 昨日は三枝龍生先生にもお勧めしてしまいました。

こんな本です(Amazonからのコピペ)
世界17ヵ国語に翻訳、数百万部のベストセラー、待望の日本語版!

夢か、それとも現実か?
大ピラミッドのイニシエーションから、数千年の時を経てついに今、果たされる〈自己〉との完全なる合一!

幼い頃から、なぜか繰り返される夢、ビジョン、まだ見ぬ故郷への憧憬・・・
それは古代エジプトで女性神官として生きた過去生の記憶だった。
時空を超えた、壮大な覚醒の物語。

これは20世紀に生きた一人の女性の魂の軌跡であると同時に、人類普遍の愛の物語です。この本を読むこと自体が、イニシエーションの一部です。


この本は、ハンガリー生まれのヨガ・マスターであり、霊的指導者であり彫刻家でもあったエリザベス・ハイチさんの自伝的小説。彼女の幼少期の出来事から結婚生活、そして彼女がかつてエジプトでファラオの娘にして后だった時代に体験したイニシエーションの様子が克明に書き記されています。

内容は多岐にわたり、訳者のあとがきから少し抜粋すると
「神、神との合一、自然の法則、〈自己〉・高次自己、意識レベルと創造力の顕現、善悪の知識の木、補完し合う半分、念話、神性と物質(形)、占星術、宇宙エネルギーと世界史、物質化と非物質化、アトランティス、ヨガ、アーユルヴェーダ、神経系とエネルギー中枢 etc.,」などがギュギュっとこの1冊で展開されているのです。

分厚い本なので、すべてをご紹介できませんが、例えば、古代エジプト時代の壁画や胸像には後頭部が長いものがよく見受けられます。あれは誇張でもファッションでもなく、長い後頭部を持った人たちは実際に生きていたようで、ハイチさんのエジプトの前世もその長頭人種でした。

その長い頭を持った人たちは神人、神の息子たちと呼ばれ、現代の我々のような頭を持った人間は人の子と呼ばれていました。

この2つの種族について、ファラオは、こう、娘(ハイチさんの過去生)に話して聴かせています。
そうだ。地球はこれから何千年にもわたり、きわめて困難な時代を経験しなければならない。知ってのとおり、純潔の神の息子たちはすべて、とうの昔に地上世界から旅立ってしまった。そして彼らの息子たちで、2つの種族の混血であり今も神性を顕現する可能性を持つ者たちも、しだいに地球から姿を消しつつある。

純潔の神の息子たちが地上を去ったあと、父方から高次の能力を受け継いだ息子であるイニシエートたちは、彼らの能力をもういちど遺伝的手段によって後代に伝えようと、人の娘たちを妻にする異種間婚を何世代かおこなった。その試みは両種族のあらゆる階層に浸透している。

しかし、創造の力のうねりが物質化の方向に向かう時代には、つねに世俗的要素が顕性すなわち遺伝的優位を演じることになる。そのため、神の息子たちの子孫であっても、長頭の頭蓋をもち、高次の能力を顕在化させる者はしだいに地球に生まれなくなっている。しかしその一方、異種間婚をつづけたことで、遺伝の法則によって純粋な神の息子が時期を選ばず--人類史上もっとも物質至上主義が強くなる暗黒時代においてさえ--転生できるようになっている。これからは短頭の人間だけが生まれ、地上全体で権勢をふるう時代がやってくる。ここエジプトでも例外ではない。そのような者たちは、もはや現王朝のように高度な種族から受け継いだ霊的な叡智や展望は持ちあわせておらず、無私の愛で民を治めるかわりに、盲目の知性、あくなき権力欲、露骨な利己主義によって容赦なく支配するだろう。

(中略)

高い資質の人間と低い資質の人間との関係では、たえず低いほうへと引っぱられてしまう。(中略)

しかしながら、それでも異種間婚はさらに進み、遺伝の法則によってイニシエートたちの高次の叡智が人々のなかにどんどん深く浸透しながら拡散し、やがてはすべての人々にゆきわたるだろう。そしてますます差異と多様化が複雑に混じりあい、いつしか全人類の一人ひとりが最高レベルの叡智とイニシエーションにあずかる可能性をもつ時代が来るだろう。

(中略)

神の息子たちの長頭も、未進化な人間の猿人のような短頭も、やがては完全に消滅するだろう。そのような混血種においては、霊的で超常的な高次の能力を顕在化させるための脳中枢や神経中枢は、数千年のあいだ進化することなく休眠することになる。したがって人々の頭は丸くなるが、思考を使うための脳神経が非情に発達し、未来においては額が大きくなるだろう。 


丸い頭と大きな額を持つ私は完全に高次の能力が休眠している種族の末裔ってことになりますが、でも、眠っているだけで、薄まりながらも神人のDNAは受け継いでいると思えば、それが救い。今生で、どれだけ目覚めるでしょうか・・・?


エジプトの過去生の記憶を持つ女性の話は、イギリス人で後年エジプトの考古学に貢献したオンム・セティの『転生』が非常に興味深い内容でしたが、この『イニシエーション』も私の絶対捨てない本のリスト入り。

700ページという分量をものともせず読めるので、是非!




by hiroshimapop | 2015-09-07 12:15 | おススメBOOKS | Comments(1)
食べない人たち ビヨンド
不思議です。食べなくても生きていけるというのは・・・。

生後、ミルクを飲まずとも生きていける赤ちゃんはいないでしょうから、「食べなくても生きていける」というのは、自らの意思で生き方を選べる年齢になった人が、食べないという選択をし、そして、そのように生きるなら食べないでも生きられる身体になっていく、ということなんでしょうね。

それは人間だけに与えられた神秘の箱なのでしょうか。


アフリカで餓死をする子ども達の写真を見るにつけ、長期間の断食の結果、骨と皮のようにやせ細ったインドの宗教者の身体を見るにつけ、あるいはこの日本でも、貧しさゆえに食べものを買うお金もなくそのまま衰弱死してしまった方々のニュースを見るにつけ、食べない=死 だったこれまでの常識が、ここ数年でボロボロと崩されていっています。

青汁1杯で1日50kcalでふっくらお元気な森美智代さん、食事だけではなく水も飲まない秋山弁護士、不食と微食を続けている山田鷹夫さん、そしてはせくらみゆきさんも食べなくても大丈夫な方のようです。。。

今年春の榎木孝明さんの不食生活は、あまりにも榎木さんの普段の生活が変わらなさすぎて、こんなにも軽やかに楽しそうに不食が出来るのかと心から驚いてしまいました。榎木さんのフェイスブックには、毎日短い不食日記が掲載されていましたが、仕事も運動もいつも通りずっと続けてらっしゃいましたし・・・・。

これは不食20日めの榎木さんの日記です
「不食ノート」20日目
今日も小さな発見がありました。宿泊所に帰って来て今日は朝から良く動いた割には、あまり疲れを感じなかったのです。これまでの常識で考えるとよく動いた後は、それなりの疲れは蓄積するものと思いがちです。しかし食べていた時と比べると、同等に動いても疲れをほとんど自覚しないとは…。

自分なりに考えてみますと、温存していたエネルギーではなく、動くことで新しいエネルギーも同時に作り出している為に、疲れる度合いが低いのではないかなと思います。疲れづらい体はもしかして「不食」のひとつの効果の表れかも知れません。これまでの常識の枠が、日に日に外されて行く楽しさを感じます。
今朝は散歩のついでに近くの公園で杖を振りました。ただ場所選びには気をつけないといけません。私の友人がある時公園で模擬刀を振っていたら通報されて、警察官に包囲された事がありましたから。確かに彼は怪しまれそうな風貌ではありましたが。

夜は私に芝居のイロハを教えて下さった40年来の付き合いの恩師に会って来ました。「不食」の噂を聞き心配して連絡を下さっていたので、元気な顔を見せて来ました。「なんだ!もっとやせ細っているかと思ったのに!」と、ガッカリしたと言わんばかりの言葉とは裏腹に、嬉しそうな笑顔で迎えて下さいました。

【疑問・質問その27~プラーナ(気)を取り込む具体的な方法があれば教えて下さい。
//プラーナ自体は目に見えないものですから意識の世界のことになります。食べると言うのは実際の食物を口から入れて、腸から栄養素を取り込むと云うのが通説です。我流ではありますがその長年食べると言う認識を利用して、空気と一緒にプラーナもパクパクと食べてしまいます。不思議と程なくお腹が張って来ます。食物が体内で分子レベルまで分解されて栄養素として吸収されるならば、プラーナ中の栄養素も同じことだと思える人間の想像力も大したものだと思います。ホームなどで口だけパクパクさせているとアホみたいに見えますから、お気をつけ下さい。】


森さん、秋山弁護士、山田さんの不食トリオの最新刊『食べない人たちビヨンド』は、食べないと人はどうなるのか、日常生活がどうなるのか、何故人は食べるのかが描かれたユニークな1冊。3人3様の食べない生活が書かれています。

秋山弁護士が司法試験勉強中に経験したという地獄体験、亡き甲田先生からいまだ届くメッセージや、思ったことは何もしなくても自然に叶ってしまう森美智代さん、不食体験するために無人島にわたった山田さんのヒマ体験など、体験者ならではのエピソードがとても興味深い。

不食者は食べないので、食べることに関連する時間(買い物、食事の支度、食べる、片づける)が不要。その時間は別のことに使えるし、肉体的にも消化にエネルギーを使うこともない1日2時間寝ればスッキリ。不食になれば、1日24時間のうち、20時間は活動時間になってしまうんですね。

その時間をいかに有効に使うか。それが不食を選んだ人に課せられたテーマともいえます。

私は不食ではありませんが、うっかりすると食べるのを忘れてしまうので、だんだん食に対する関心が薄くなり、実際のところ、食べなければ食べないでいいや状態(でも寝るのは好き!)。

とはいえ、なんせ、普段の体重が38キロ台。うっかり食べ忘れが続くとそれ以下になってしまうので、いつも悩んでしまいます。このままいっそ体重の底をつくまで食べないを極めるか、もう少し体重を増やすために食の回数と量を増やすか・・・。

秋山弁護士や森美智代さんのように、食べないを極めた向こう側に行ってみたい気もするし、自分で育てた野菜を食べる、いつかの未来も楽しみだし・・・。

まだまだ私にはビヨンドは遠い世界ですが、食べない楽しみを垣間見る1冊です。


by hiroshimapop | 2015-09-01 17:00 | おススメBOOKS | Comments(0)
キューブラー=ロス博士の最期のとき
河合隼雄さんと柳田邦夫さんの対談本『心の深みへ』のご紹介の続きです・・・。

1つの対談では、ほぼ、まるまるエリザベス・キューブラー=ロス博士についてお二人は語られています。

当時、脳梗塞で寝たきりとなっていたロス博士が、ドイツの「シュピーゲル」という雑誌のインタビューに対し「死に対するこれまでの自分の学問は何の役にも立たない、精神分析はお金と労力の無駄である」等々述べたそうで、その記事は世界中に衝撃を与えていました。

私は、英語に翻訳された記事を読んだ友人に話を聞いただけなので、実際の記事を読んではないのですが、ロス博士の本はほぼ全て読み続けてきた、いちファンとして「全否定とはすさまじい・・・」と驚いたのを覚えています。

そのロス博士のインタビューについてお二人が語っている部分です。
河合:非常に単純な、バラ色の聖女みたいなイメージをみんなキューブラー=ロス博士にもつわけですね。しかし、彼女自身にしたらたまらんでしょう。そんなことないよと。死ぬということはもっと大変で、自分だっていい加減いやになっているところがあるんだということは、しっかり言っときたいというのは絶対あったと思いますね。

だから新聞記者に、ほんとにすばらしい女性が、静かに、静かに天国に行くように死んでいくというようなイメージをもって取材に来られると、こういうこと言いたくなるんじゃないかと思うんですよ。ちょっと依怙地なおばさんでしょう(笑)。

(中略)

河合:死にゆく途中で、自分の一生やってきたことはほとんど意味がなかったと思うほうが、私はあたりまえやと思いますね。そこでファンレターを見て喜んでいるようでは、話にならんと思うんですよ(笑)。

柳田:ロスが世界中から来た手紙の山にうんざりしている。これはわかるんですよ。だって彼女はもう脳卒中をやり、半身不随になり、そしてアリゾナの赤茶けた砂漠の中にひとり住まいしている。ときどきヘルパー的な人が来るけれども、ほんとに食事するのがやっとというような状況の中で生きていて、そこへどかどかと、どかどかと聖女あつかいするような・・・。

(中略)

河合:それとね、死んでいく人はロスに話を聞いてもらって、そしてロスがいるということによって心安らかになるんですね。でもロスという人は、1人のほうが安らかなんですね。これはものすごくおもしろいんですよ。つまりロスの話を聞く人はいないんですよ。

柳田:そうですね。ロス自身、自分は孤独だって言ってますね。

河合:天才は仕方ないですね。ものすごく孤独ですよ。

柳田:しかも、ロスにインタビューした「シュピーゲル」の記者は、それを非常に惨めな姿として描いているんですね。(中略)

ドイツから取材に行って、アリゾナの小さな町のはずれの質素な一軒家にいるロスを見て、世界的な名声を博したロスが何としたことか、コヨーテの遠吠えが聞こえる暗闇の中にさびしくひとりでいる。こんな悲惨はないというような目でみている・・・。違うんですね。

(中略)

河合:この記者は、ロスはすばらしい人だから幸福な余生を送っているはずだ、という先入観をもっていたのでしょう。しかし、そんな幸福なんていうことは問題じゃない。幸福ったっていろいろ種類があるけど、この記者が考えている幸福というのは一般的幸福ということで、一般的幸福と個性化はまるっきり話が別次元なんですね。それがもうごっちゃになってるんですよ。


長年の溜飲が下がりました。

私も短い時間でしたが、2度ほどロス博士のお宅に行かせていただき、博士と直接話をしました。たしかに依怙地で短気、といえばそうですが、言いかえれば、とても無邪気で正直な方でした。とっくに死ぬ用意はできているのに、なかなか自分を死なせてくれないと神さまに暴言を吐いてましたが、ずっと精神医学の最前線で保守的な医師界や世間の常識と戦い続け、走り続けてきた戦士のような女性に、博士のお母さんがそうだったように、神様が最後に与えた試練だったのかもしれません・・・。

ただ、ベッドで誰かの世話を受けなければ生きていけないという最期の時があんなにも長く続くとはご本人も思っていなかったと思いますが・・・。

でも、それを不幸だと決めつけてしまうのはあまりにも短絡的じゃないかなと思ってましたが、河合隼雄さんと柳田邦夫さんが「一般の幸福とは博士のそれは違う」と言って下さっているのは、博士の最期に対する援護射撃でちょっとホッとしました。

この対談では、ロス博士の幼少期の出来事、父親との関係、そしてロス博士が見つめてみた死後の世界についても語られています。ターミナルケアの看護を確立したシシリー・ソンダースさんのこともお話になっているので、私にはもう珠玉の一章、たまらない対談でした。


そして・・・

ロス博士は自書『人生は廻る輪のように』で、夫の肩に顔を埋めて寝るのが好きだったと書かれているんですが、それについてもお二人は語っています。
柳田:おもしろいなと思ったのは、ロスは率直に自伝の中で、私は夫の肩に顔を埋めて寝るのが好きだったと。そして、エイズの子どもたちのために建てたヒーリングセンター兼自宅が放火されて焼かれてしまうという大変な危機の中で、私は男の肩がほしかったと書いているんですね。しかし男の肩がなくても、すぐに立ちなおって再出発する。あれもすごいことだなと思ったんです。

河合:ところが、男の肩はおまえにやらないって拒否されるでしょう、すごいですよね。だから、生きてる男の肩にもたれるような女性じゃないんですよ(笑)。彼女がもたれられる相手というのは、こちらの世界にはおそらくいないでしょうね。

戦士のようだった博士でも、夫の肩に埋もれて寝るひとときを必要としていたのかと、私も本を読んだときに意外な印象を受けました。でも、ロス博士でさえそうだったんですから、世の多くの女性はそうなのですよ、男性の皆様。

ですから、どうぞもっと女性に肩を貸して下さいませ。・・・顔を埋めたくなるような頼もしい肩(しかも生きている)プリーズですね。





by hiroshimapop | 2015-08-07 06:22 | おススメBOOKS | Comments(0)
愛の法則
ひょんなことから、「魂の法則」というサイトを見つけました。幽体離脱中に出逢ったイザヤという賢人との会話をまとめたのがこの本だということ。その内容は、書籍としても出版されていますが無料でダウンロードも可能です。かなりのボリュームですが、続編の「愛の法則」をざっくり読んでみました。

無料ダウンロードページはこちら


まずは著者からのメッセージ
これは、皆さんに贈る愛のメッセージだ。

本書が、自分の感情についての理解を深める一助となることを願う。
そうして、真実の愛の感情と偽物の愛の感情とを見分けることができるようになってほしい。真実の愛の感情だけを育んで、愛を装うエゴ的な感情を排除していく役に立てればと思う。なぜなら、それが幸せになれる唯一の方法だからだ。

愛することへの怖れを手放し、心で感じる通りの人生を生きてほしい。
僕たち一人ひとりが、誰にも侵害されることのない、自由に愛することができる権利を持っているということが、この本を読み終わった後で、はっきりと理解してもらえればとても嬉しく思う。
すべての愛をこめて。
ヴィセント・ギリェム




この本は愛の法則というタイトルどおり、様々な愛についての会話がなされています。

まだ斜め読みで、全部を読み通したわけではないのですが、すでに男女としての関係性は終わっていて子供の両親としての役割だけで結婚生活を続けている、あるいは便宜上一緒に暮らしているカップルにとっては耳の痛い話しも多そうです。なんだか恋愛至上主義のような印象で、常に好きな人、愛を向ける人がいることを推奨されている感じではあります。

また以下で紹介しましたが、愛情が終わっている結婚生活を続けるより、誰かを好きになったのなら、自分の感情に正直になり、新しいパートナーのもとへ行くことのほうが自分の感情で正直でよいと賢人イザヤは推奨しているような。

しかし、そういった愛はいずれは終わり、長年連れ添ったパートナーとの元のサヤに戻るということもよくあること。結婚して数年たてば最初の恋愛状態から二人の関係が別の形態に移り変わっていくのは当然で、20年、30年と関係が続いているなら、お互いに対し、情熱は失っていても、安定した穏やかな関係性を保てているなら、それはそれで愛じゃないのかなと思ったりもします。

友達やご夫婦で一緒に読みあって、お互いに感じることを話し合うと面白いかも。


どんな内容なのか、ごく一部をコピペしてみます(165ページもあるので、本当にごく一部です)。

愛の法則から見たカップルにおける不実
*カップルにおける忠実と不実についてはどうお考えですか?
義務に対して忠実になることもできるし、愛情に対して忠実になることもできる。霊的には、愛情に対して誠実であることしか価値がない。

*それは、はっきり言うとどういうことですか?

パートナーとの関係で二人に愛情も類似性もない場合は、気持ちではなく、強制された約束のように、義務感から誠実であろうとする。だが、本当の愛があれば、忠実であろうとして努力しなくても、自然にそうなれるものだ。

君たちは、司祭か判事の目前で署名をした結婚と呼ばれる契約は重視しているが、夫婦の間に愛が存在するかどうかは軽視している。だから、夫婦に愛がない場合であっても、あらゆる婚外交渉を――そこに真の愛が存在しようとも――非難する。そして、夫婦関係における不義をとやかく言うが、霊的に存在する唯一の不実は、感情における不実であると知らねばならない。

別の人に恋愛感情を抱きながらもその気持ちを断念し、それが正しく善いことで天の掟と合致すると自分に言い聞かせるか、あるいは人から言いくるめられて、生涯にわたって愛のない結婚生活を送る人もいる。

そういう人は、司祭が結婚式の日に厳かに言った「神が結び合わせたものを引き離してはならない」という誓いを守るために自己を犠牲にしたので、極めて不幸であるのだが、他人からは申し分のない道徳心とふんだんな徳を持った聖人のように見なされる。

しかしながら霊的な視点では、愛の感情に対しての忠誠心しか霊的な価値がないので、違った見方をされる。そういった人たちは、彼らの社会規範や慣習上は、非の打ちどころのないイメージであるが、自己の感情に対して不実であるため、霊的進化においては停滞してしまっている。

そのため、霊界に戻れば無意味な自己犠牲を払ったことに気づくだろうし、その次の転生では、今生勇気がなくてできなかったこと、つまり感情のために闘うべく、戻る必要があるのだ。

一方、自己の感情をおざなりにし、自由に愛して幸せになろうとする人を非難することに悦びを覚え、強いられた結婚のしがらみに囚われて不幸になると満足するような、他者の感情を抑え込んでしまう者たちは、以後の転生においては、彼ら自身が、同じように利己的な者たちの抑圧的な態度の犠牲者となろう。

その一方で、自己の感情のために闘って愛する者のそばにいるために、無理解・屈辱・恐喝・肉体的または精神的な虐待を受け、所属する社会や共同体、そして家族から不貞・不実・不道徳とされた人が、実は真に感情面で成長をしている人なのである。その人が、「魂の法則」の「愛の法則」と本当に調和している人であり、物質界で苦労して獲得した真の幸福を、霊界で味わうことができる人なのである。霊界に行けば、もう何の障害もなく、感情を自由に表現できるからだ。


*望みの人を手に入れたらどうなるのですか? 二人とも幸せになるのでしょうか?
いや、しばらくの間は望みのものを獲得できたという満足を感じているが、現実が期待したほどのものでなかったと見るや、大きな失望を味わい、急速にその関係に幻滅していく。以前は神や女神のように思えた、今やパートナーとなった相手は、ごくふつうの平凡な人として目に映るので、次第に興味を失っていく。

その関係が上手くいかないのを相手のせいにして責めるが、本当は、幻想だけで愛の感情がなかったことが不満の原因なのだ。それなのに、他の人が自分のパートナーに関心を寄せていると思うと、今度は所有欲を出す。それは、相手を苦労して獲得したトロフィーだと見なし、自分に所属していると考えているからだ。
そうなると、自分たちの関係が幸福でないにもかかわらず、相手がそこを抜け出して別の場所で幸せになることも許さないので、自分が生きることもできず、相手を生かすこともできない。

それはまるで、親に欲しいおもちゃを買ってもらえないと地団太を踏むのに、手に入れるとちょっと遊んだだけで飽きてしまう、我がままな子どものようだ。別の子どもがそのおもちゃを欲しがると、また興味を示すのだが、それはもう一度惹かれたからではなく、自分の所有物だと見なしているものを他人に譲りたくないからなのである。


*すでにパートナーがいるのに、別の人に恋をしてしまった場合は、一体どうするべきなのでしょうか?
その人が好きなようにすればいいのだ。だが、幸せになりたいのであれば、感情のために闘うべきである。

*それは、それ以前の関係を切って、愛する人と一緒になるべきだという意味ですか?
愛のない関係は、愛が欠如しているという時点で、すでに壊れているのだ。ただそれを認めて、それに従って行動すればよい。前にも話したろう。伴侶を愛していないのであれば、正直になって、それを伝える勇気を持つことだ。そうしてから、正式にカップルの関係を終了させることだ。これは、他の人を愛しているか否かとは別問題だ。ましてや別の人を愛しているのであれば、自分の本当の気持ちを認めて、愛している人に伝え、相手もそう想ってくれているのかを見てみればよい。そして、相手がどういう決断をしようと、それを受け容れることだ。二人が相思相愛であり、カップルとして一緒になる意思があるのなら、誰にも何にもそれを妨げられないし、妨害すべきでもない。まして、罪悪感を持つ必要などない。霊的には罪悪感を持つ理由は何もないからだ。


―愛することへの怖れについて
その名が示す通り、これは、苦悩の原因になるだろうと思って、愛を感じることに怖れを抱くことだ。これは、別れた相手に苦しめられたとか、第三者に恋愛関係を壊されてしまったなど、過去にトラウマ的な経験をした人たちによく見られるものだ。

また、幼少期から感情を抑圧する教育を受けてきたために、感情面での自由が制約されてしまった人たちに見られる。このような人たちは、自由な気持ちを持つと、なんらかのお仕置きを受けるのではないかと怖れている。教えられた行動規範から見て自分の感情が正しくなければ、良心の呵責を覚えるように自己規制してしまうこともある。

愛することを怖れる人は、自分をさらけ出すことで傷つけられるのが怖いので、人と交際する時に心を許さないことが多い。そのため打ち解けにくく、あるがままの姿を知るのは困難だ。無理解、拒絶、恐喝、脅迫、裏工作、中傷、攻撃を怖れ、自己をさらけ出さずに感情を隠すか押し殺しておけば、誰からも危害を加えられないと思っている。このため、感情的に孤立する傾向にある。被害を避けるには、それが最良の策だと思っているのだ。

*でしたら、危害を加えられないためには、感情的に孤立するのがいいのですね?
そうではない。感情的な苦しみを怖れる気持ちから、外部の情緒攻撃から守ってくれそうな鎧に身を隠しても、その鎧自体が、人に愛の想いを伝えたり、他の人たちの愛を受け取ることを阻んでしまうので、幸せになれなくなるのだ。この場合は他人ではなく、自分で自分自身を傷つけているのだが、それで辛い苦しみが軽減されるわけではない。

*孤立してしまうと、どうして苦しむのか具体的に説明してください。
よかろう。感情的に孤立している人が自分の類魂に出会ったとして、相手が気持ちを伝えて親しくなりたいと思ったとしてみよう。通常このような場合は、双方がそれぞれ感情を表明して、相手に愛を覚え、二人は幸せに感じるものだ。

だが孤立してしまっている人は、怖れと不信感から、与えられる愛を感じ取れず、それと同時に、自分自身の愛の感情を抑圧してしまう。そして、そのことで苦しむのだ。またその人の類魂も、愛を伝えることができず、愛されていると感じられないので、苦しむことになる。

おそらくその人の類魂は、何が起こっているのか理解できず、混乱してフラストレーションを覚えよう。そして、自分の気持ちに罪悪感を持ったり、感情を表現するのを怖れるに至る。好かれていないと思って、その人とパートナーの関係を築こうとするのをやめてしまうことさえある。

こうして、愛への怖れと不信感に由来する感情的な孤立のせいで、一緒になって幸せになれた筈の二人の類魂たちは、お互いに別々の道をとり、幸福を味わえないまま歩んでいくのだ。

*でも、これまでの恋愛関係で悪い経験がなくても、愛することや恋することを怖れる人もいますよ。そういう場合は、どうしてでしょうか?
感情的トラウマは、前世からのものである場合もある。過去の状況を覚えていなくても、そのトラウマを乗り越えていなければ、それが魂に深く浸透していて、その後の転生に持ち越され、怖れとなって顕れる。

愛することを怖れている人たちは、自分たちは幸福とは無縁であり、本当に愛してくれる人などいるわけがないと思っているので、生き甲斐がない。暴力的な飼い主に長い間いじめられた挙句に逃げ出せた、野良犬のような気分である。ある日この犬は、感受性が高く可哀相に思い、家に置いて愛情深く世話をしてくれようとする人たちに出会い、中の一人がなでようとして近寄るのだが、虐待を怖れるあまり、その手が愛撫ではなく乱暴をするのだと思い込み、より良い生活をあてがってくれようとした人たちから、震え上がって逃げ出してしまう。これと似たようなことが大勢に起きている。怖れのせいで、人生で幸せになるチャンスを失ってしまうのだ。

*孤立主義と愛することへの怖れは、どう克服しますか?
まず、自分が怖れを抱いていることと、そのせいで孤立してしまうこととを認めること。自分に自身の感情を自由に表現することを許し、それに従って生きるために闘う勇気を持ち、人生での決断の際に他者の意見に左右されず自己の感情を信用することで、怖れを乗り越え、孤立に打ち克つことができる。どんなに困難な状況に思えようと、決して感情を放棄してはならない。

また、抑圧してもいけない。それが、幸せになるための唯一の方法だからだ。もう一度、愛への希望と信頼を取り戻すことだ。

*けれど、愛の感情のために果敢に努力したにもかかわらず、愛する人と一緒になるという目的を果たせなかった人や、他の人に妨げられて強要された関係を断ち切ることができない人もいます。前にも、性暴力についてや、感情における自由の権利を守ろうとして殺されてしまう女性のことを話しましたが、そういう人たちは闘いに負けてしまったのでしょうか?
愛の感情のために闘う時に、失敗することなどない。人間の無理解とエゴのせいで、物質界で幸せになることができなかったとしても、霊界でその報酬を受け取ることを疑ってはならない。気持ちに正直に生きる努力において示された勇気は、進化の一つの成果であり、永久的に魂のものとなる。

愛の感情が明確で、それに対して勇敢であるのは、これまでの転生で体験した試練において、自分自身の力で勝ち取った大変価値のある霊的な資質だ。魂は以後は永久に、この資質を持ち続けることになる。そしてこれによって幸せになり、惨めな目に遭った過去の罠にはまらないで済むのだ。



by hiroshimapop | 2015-07-18 15:19 | おススメBOOKS | Comments(1)
ジョコビッチの生まれ変わる食事
テニス界の絶対王者なのだそうです、この本を書いたノバク・ジョコビッチさんは。
セルビア生まれで、私達の記憶にもまだ新しいユーゴスラヴィアの分裂戦争が彼の子供時代の記憶。激しい爆撃と空爆から逃れるためのシェルター生活も送っています。

苦労のすえ、プロのプロ選手になったあとも、試合中に喘息を引き起こして途中棄権をしたり、体調不調で試合に集中できずボロ負けとなったりと、試合の後半で倒れてしまう、故障の多い実力を発揮できないことで有名な選手だったそうです。

それが、小麦製品を完全に断つことで(両親はピザ屋をやっていたので、小麦製品は彼の食生活の基本でした)、それまでの体調不調が消えたのを実感し、それを機に食生活の改善に取り組み、現在は、Wikiによると、世界ランキング1位在位記録歴代6位、2014年7月から現在まで1位に在位中の最強の選手に生まれ変わっていきます。

『ジョコビッチの生まれ変わる食事』は、まさに、ジョコビッチ選手がいかに食によって生まれ変わったかが書かれた本なのです。


ジョコビッチさんの食の基本は、グルテンフリー(小麦製品を避けた食生活)なのですが、私は感心したのは、ジョコビッチさんの4つの食ルール。

①ゆっくり意識的に食べよう
②体に明確な指示を与えよう
③前向きであれ
④量ではなく、質を追求せよ

がそれなのですが、1~3は、ケイシーのいう同化作用に注目したルールなのです。

詳しくは本をお読みいただきたいのですが、ルール①を少しご紹介すると、ジョコビッチさんは、こう本に書かれています。

早食いするとどうなるか・・・。その解説です。
胃に食べ物が大きな塊として押し寄せてくるので、得た情報を処理する時間がない。胃が正しい時間に正しい情報を得られなければ、消化は遅くなる。体は「もう満腹だ」という信号を出さなくなる。よって食べすぎる。そして口腔に仕事をさせる時間を与えていないということになる。

具体的には、唾液に含まれるエンザイム(酵素)に口の中にある食物を分解させないので、胃が本来しなくてもいい仕事をしなければならなくなる。

再び、科学の授業だ。消化は口腔から始まる。噛むことにより、食べ物は細かく砕かれ、胃はこれからやってくる食べ物に対する準備をする時間ができるのだ。(中略) 奇異に聞こえるかもしれないが、もう1度言っておきたい。肉体は食べ物と一体になる必要があるのだ。これこそ消化プロセスの本質なのだ。

(中略)

食事中には、テレビは観ない。Eメールも見ないし、ショートメッセージを送ることもないし、電話で話すこともなく、誰かと長々話すこともない。そして噛むときには、フォークを目の前におき、かみ砕くことに集中する。

そしてその間にも消化の過程はすでに始まっている。唾液に含まれるエンザイムが食物と混ざり、胃に到達する頃には「情報」として形をなしている。

(中略)

胃や次の段階におけるエネルギーレベルのことを考えると、自分の肉体には時間を無駄にしてほしくない。


実は私は意外にも早食い。女友達と食事をしていると、だいたい私のほうが先に食べ終わってます。しかも食事中、本を読んだり、メールをみたりはしょっちゅうですし・・・。

テニス選手としての自分のパフォーマンスをマックスにするための第一歩は、食に向かう姿勢から始まっているんですね。

私も仕事がら、食についての本は山のように読んでいますが、この本は買いです! 食についての専門書ではないので、あまり本を読まない人にも読みやすく、また納得がいく内容だと思います。

英語の本には、14日間のグルテンフリープランという副題がついています。グルテンフリーを実行するかしないかは別として、食の大切さを実感する1冊になると思いますよ。ちなみに2012年の7月から始めた私のグルテンフリー生活も、気がついてみれば満3年。この7月で4年目に突入しました。

時々友人との外食先でパスタしか選択肢がないこともあるので、100%の厳格さではありませんが、もうグルテンフリーやってます、という感じではなく、小麦製品がない食生活がフツーの食事になりました。

しかし、この本を読んで、自分の早食いを反省! ②の体に明確な指示を与えよ!も納得。これ、私には大切な情報でした!



by hiroshimapop | 2015-07-17 14:40 | おススメBOOKS | Comments(0)
『あわいの力』安田登著
ひさびさに2度読みしたい、知的な興奮を憶える本でした。

著者、安田登さんの履歴がすでに面白い。
1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた二五歳のときに能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。また、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)として各種ワークショップも開催している。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』(以上、春秋社)、『身体能力を高める「和の所作」』『異界を旅する能 ワキという存在』(以上、ちくま文庫)など多数。


いったい、麻雀とポーカーやっている人の何人が甲骨文字に興味を持つことになるのでしょう?おそらく皆無だと思うんですが、実は甲骨文字だけではなく、古典ギリシャ語や古代メソポタミアの楔文字で書かれたアッカド語、シュメール語も勉強している。とっくの昔に誰も使わなくなった死語を学んで嬉々としている。

役に立たなければ立たないほど面白い・・・らしいです。

どの章も、分からないけど面白ーい!とワクワクしながら読んでましたが、ここでは、ケイシー繋がりでイエスについて書かれていたところをご紹介。私には初めて知る概念でした。

本文137ページ~抜粋
『新約聖書』は古典ギリシャ語で書かれています。正確にいえば「コイネー」と呼ばれるちょっと特殊な古典ギリシャ語です。

『新約聖書』のなかに、「スプランクニゾマイ(σπλαγχνίζομαι)」という言葉があります。これは日本語では「憐れみ」と訳されますが、この言葉のもともとのニュアンスは「内臓が動く」という意味なのです。ちなみにこの語の英訳は「compassion」。相手の「感情(passion)」と「一緒(com)」になるということ、すなわち感情の同期をいいます。古代の人たちは、感情が一体化する感覚を、「内臓」で感じていたようなのです。

しかし、このスプランクニゾマイという語は古典ギリシャ語のなかでもちょっと特別な語で、ほとんど『新約聖書』のなかでのみ使われる言葉らしい。

(中略 数ページ飛ばして、152ページから)

本居宣長は「あはれ」というのは、「ああ」という感動であるが、特に恋や悲しみ、そういうことに使われることが多いといっています。恋や悲しみというのは、自分ではどうにもできないことに抱く感情であり、『源氏物語』というのは、そのどうにもできないことを描いた物語だというのです。

そういわれてみると、イエスが「スプランクニゾマイ」、すなわち内臓の同期による憐れみを感じるのも、本居宣長のいうどうにもできないときばかりです。

イエスが「スプランクニゾマイ」をするときというのは、大きく2つに分けることができます。ひとつは飢えた大勢の人々を見たとき、もうひとつが病人や死者を見たときです。

まず空腹ですが、飽食の時代といわれている現代の空腹とはわけが違います。私が学生時代は、まだまだ日本が貧しかった時代で、アパートで餓死した先輩もいました。それよりももっと貧しかった時代です。その空腹感は、ちょっと想像できないくらいにすごい。

特にイエスが見たのは何千人という空腹の人たちです。ちょっとやそっとの食料ではどうすることもできません。その人たちを見たときに、イエスのはらわたが動いた。(中略)

人々の飢餓感にイエスの内臓が反応した。飢えた人たちと苦しみを共有し、何とかしたいと思っても、何千人もの人たちを前に、ほんの何切れかのパンしかない。本居宣長のいう「どうにもできない」状況です。

そのときイエスの内臓が動いた。スプランクニゾマイです。病気や死者に対してもそうです。ふつうの人にはどうにもできない。そのときにイエスの内臓は動くのです。(後略)


この章では古代の人たちが持っていた内臓感覚について書かれていますが、この本はもともと「あわい」や「こころ」がテーマ。冒頭から、甲骨文字あり古事記あり万葉集ありギルガメッシュ叙事詩あり、聖書ありのてんこ盛りの中から「あわい」や「こころ」が考察されていきます。

普段考えたことも触れたこともなかった世界観だったので、ひたすら、へー、ふーん、ほー!の連続。安田さんの他の著書リストを拝見すると、能楽師のワキ方として、ロルフィングのロフファーとしての身体感覚についての本も何冊も発見。

本を買う冊数を減らそうと決意したばかりなのに、あー、また読みたい本が増えてしまったと嘆きつつ、少しずつ安田ワールドに突入の予感。

ともかくも、この本は面白かったですー。


by hiroshimapop | 2015-06-30 18:38 | おススメBOOKS | Comments(1)
『心の深みへ』子どもの自殺を考える
全作を読み通してはないんですが、河合隼雄先生が書かれた本は折りにふれ、読んでいます。

河合先生の対談本は購入できるものはほぼ全て読んでると思いますが、この『心の深みへ』は、その中でも珠玉の1冊になりました。どの章も河合先生のやさしさが溢れています(もちろん柳田邦夫先生のやさしさも)。

河合隼雄先生は、素晴らしく頭の良い方ですが、その頭の良さを、人を包み込んだり、受け入れたり、目の前にいる人の心にあわせることに使っていらっしゃる。もちろんユーモアを発揮することにも。


私は河合隼雄先生のいちファンではあったものの、個人セッションを受けたり、お話させていただきたいとかつて1度も思ったことはなかったんですが、下記の文章を読んで、初めて「あ-、私のお話を一度きいていただきたかったなぁ」と思いました。きっとそうかそうかと頷いて下さったと思います。

以下は第1章で、明恵について語っているところ。明恵は13歳のとき、1度自殺を図っています。その時の明恵の言葉は「13歳にしてわれ老いたり」。そして、子どもの自殺について河合先生はお話を続けられています・・・。

最近の12、3歳で自殺をする子には、おそらくそういう子もいると思うんです。そういうことは、親もほとんど理解できないでしょう。そこで、みんなが単純に理由を考えたがる。そういうのはよくないと思うんです。現代人というのは、何にでも原因がないと気がすまないところがある。だから、その原因について、たとえば「宿題を忘れたから」とかなんとか書いているけど、あれはほんとうにナンセンスだと思います。

ひところ子どもの自殺が多発した時期があって、新聞にもさかんに報道されましたが、そこに単純に原因が書かれていることに腹が立ち、文句をつけたことがあるんです。そうしたところ、京都新聞が14歳の子の自殺について、その前にどんなことがあったかをすごく丹念に調査した。でも結局のところ、普通に人が考えるような意味での原因が分からなかった。そのことをはっきりと記事にした。それ以後、京都新聞ではあまり自殺の原因を書かなくなったんです。

単純に書かれると、書かれたほうはすごく迷惑をする。たとえば、宿題を忘れたことを先生が叱ったのが原因で自殺をしたなんて書かれたら、その先生はたまらんでしょう。そんなことではなかなか死なないものですよ。


子どもの自殺が起こったとき、テレビや新聞で、児童心理学の専門家やコメンテーターが、親に叱られたから、宿題が出来なかったから、などと簡単な理由でその子の自殺を語ったり、子どもは自殺を考えないなどとコメントしているのを聴くことがありますが、そのたび私は「ホントに、この人達は分かってない!」と思ってました。それは私が子どもの時にもあったし、それ以降もずっと相変わらず、社会は何か分かりやすい理由を作ってその子の死をお終いにさせてしまいます。

表向きはたとえそうでも、その裏には全く別の、そして時には本人もよく分からない言語化できない何か心の葛藤があったはずなのに・・・。


私自身のことをお話すれば・・・

私が母親とは違う人間であり、さらに私という人間が世界にたった一人しかいないことに気がついたのは、まだ保育園に上がる前のある夏の日のこと。その時、私がどこにいて、一緒に誰がいたか、その景色は今でもはっきり憶えています。その時私は「自分の人生は、たった1人で生きなければならない」言い換えれば「自分の人生を生きることが出来るのは私しかいない」ことを知りました。

その時、私は母を呼び、祖母を呼び、近くの家族の名前を1人1人呼んで、家族が自分のそばにいることを確認しました。でも、人が周りに何人いても、私はたった1人しかいない。なんという孤独だ。

さらに曾祖母の年齢を聴いて「あと80年生きなくてはいけないなんて、人生長すぎ-」と呆然としたのも、まだ4歳のとき。小学校の頃には、痛くなく苦しむことなく自殺する方法などを1人無想したりしてました(こんなときに「夢想」という言葉はふさわしくないかもしれませんが・・・)。

そんな私が生きていられたのは、宇宙の大きさに比べたら、人間の人生は短いと知ったから。そして魂の学びが残れば、死んでもすぐにやり直しさせられることがなんとなく分かったから。これが聖書のように1人の人生が800歳だの900歳だの長寿が当たり前だったら、もうとっくに、子どもの頃に死んでいたかも。

もちろん、幼い脳で考える幼い思考では、私の心に生まれた孤独感を説明できるハズもなく、またそれが何かも分からず、でも、この地球に生きるために自分に与えられた時間と空間があまりに大きすぎることに途方にくれ、うんざりもしていました。

自殺をした子ども達が全員同じだったことは100%ありませんし、中には本当に些細なことで死んでしまった子どももいるかもしれない。でも、子どもが自分の死を考えないってことは絶対にない。実際、白いカラスがここにいるんですから・・・。


この本、各章ごとに、共感したりなるほどと思うところがあり、各章ごとに語れそうですが、それはまたいずれ・・・。


by hiroshimapop | 2015-06-15 19:04 | おススメBOOKS | Comments(0)
夢は神さまからの最高のシグナル
ケイシー流の夢解釈の第一人者でもあるで坂内慶子先生の夢辞典『夢は神様からの最高のシグナル』が出版されました。以前「夢のメッセージ」として出版されていた内容が、さらに分かりやすく、活用しやすくなったアップグレード版の夢辞典です。

坂内先生からいただいたメールには、こう書かれています。
Aさんがご紹介下さったコスモ21の出版者は、
長く売れるもの、
本屋の夢に関する棚にはいつも在るものにしたい、
さらに精神世界と心理学の棚にも載る本でありたいとのことでした。
世に理念を説く本はたくさんあるが、
心の成長に直ぐに役立つ方法を示す本はないからとのことでした。

それで既に出来上がっている原稿を平易な文章に書き換え、
構成を大幅に変えて、
1年間編集者とべたなやり取りをして出来上がった本です。

編集者は夢の本ではあるが、
辞書をつくっているのだからと手を抜くことがありませんでした。
夢辞典となっていますが、
編集部では通常の辞書づくりと同じような労力をかけて、
校正に力を入れてくれました。

「夢のメッセージ」はすべてがわたしの文章で、
編集者からの直しは入っていませんが、
今回の「夢は神さまからの最高のシグナル」は、
編集会議に何度もかけ、
この本を手に取った人が、
この本だけで夢を実行に移せるようにと、
平易な表現になるよう何度も提案してくれました。

本づくりの大変さをAさんを通し、
出版社のみなさまを通して体験できたこの1年でした。


この本の編集をサポートされたAさんは、私も一緒に学ばせていただいた坂内先生の夢講座の生徒さん。坂内先生から直接夢解釈の手ほどきを受けた方が手がけた夢の本ですから、読者が夢を自分の人生に活かしたり、夢を学ぼうと思ったときに役立つトリビアがたくさん詰まっています。

夢といえば、もうずいぶん前ですが、アメリカのバージニアビーチに滞在中、坂内先生が亡くなった夢を見たことがあります。夢の中でも号泣をし、また実際に泣きながら目を覚ましたのは後にも先にもあの時だけだということもあり、私にとっても、とても印象に残った夢でした。

帰国後、坂内先生に夢のストーリーをお伝えしたら、自分が死んだ夢を「人生の再出発、再生だ」と、とても喜ばれたのを記憶しています(夢の中に出てきた数字や、職業が現実の坂内先生にリンクするものであったのと、悩んでいたことの解決になったらしいです)。

「夢の中であなたが死にまして・・・」と伝えるのは、たとえ夢であっても、なかなか躊躇するものですが、死の夢には別の側面があると知っていれば、その人への吉報になり得るかもしれません。


坂内先生の夢講座を受けているときには、飛行機の夢が話題になったことがあります。

私はテンプルを始めた頃に、よく飛行機の夢を見ていたこともあり、飛行機を「仕事がテーマ」の夢だととらえていました。夢に出て来た飛行機の飛ぶ様子で、自分の仕事の取り組み方を考え直したりしていたんですが、坂内先生によると、飛行機の夢は〈過剰な期待、時代の要望を表します。学歴、社会的な地位、結婚の条件といった物質的価値があなたを苦しめ、その期待に応じた大きさの飛行機が登場します。自由を求めてブレイクスルーしたい願望と、成功への条件がせめぎ合っているなら、ジャンボジェット機を操縦することさえあります・・・以下略〉だということ。

小型飛行機はおそらく私の夢にはほとんど登場したことがない(私の記憶では1度しかない)うえに、私自身がジャンボジェット機だったことさえあるので、当時の私はここに書いてある通りの実力以上の期待にアップアップしていたり、心のせめぎ合いが無意識レベルでなされていたんでしょうね(私自身がジャンボジェット機だったんです!と伝えたら、坂内先生にビックリされた記憶あり)。

笑ってしまったのは〈飛行機は心の成長、霊性の向上とは無関係です。自由な心や霊性は何も持たず自分の力だけで飛ぶ鳥として表れます・・・〉のくだり。苦笑するしかありません・・・。


トイレの夢もよくあるテーマだと思いますが、夢辞典によると、トイレの夢は〈問題は終わり、今はそれを手放す時です。過去を手放す寛容さが試されています。トイレが不潔で使用できないという夢は過去を手放せない言い訳を意味します。トイレ探しの夢はグレードアップが見込まれることです・・・以下略〉。私は、トイレを探してようやく見つけたら、トイレが不潔で使用できない、という夢を何度かみています。グレードアップするには大きく断捨離することが必要ってことでしょうか。


この本の冒頭には、夢の活用の仕方、つきあい方が書かれています。
夢は神様からのメッセージ。しかも、夢に意識を向ければ向けるほど、より多くの自分にとって意味ある、そして人生を向上させるヒントやフィードバックが返ってきます。

夢を見る秘けつは、まず夢に関心を持つこと。そして、夢に関心を持っていることを無意識レベルに伝える有効な方法が、夢について書かれた本を読むこと。この本はケイシーリーディングの夢解釈のエッセンスもふんだんに入っているので(洗腸が勧められていたり・・・)、夢の解釈に悩んだときのために身近に置いておく本としては良書だと思います。

夢はパーソナルな有能なカウンセラーであり、医師であり、応援団であり、厳しいメンター。毎晩、溢れるほどのメッセージを伝えてきているんですから、それをしっかと受け取ったもの勝ち。・・・と書きつつ、私もしばらく夢日記をつけていなかったので、しばらくぶりに夢日記を引っ張り出してみるとします。


坂内慶子先生のプロフィール
和洋女子大学短期大学部国文科卒業。家政学部中退。幼少より数々の病魔に冒され辿り着いたエドガー・ケイシー療法により健康を取り戻す。健康で居続けるには自分を知ることだと悟り、ケイシーがその道具のひとつとして取り上げた夢の研究に取り組む。縁あって瞑想の指導者ベティ・ベサーズ著『Dream book』を教本に夢への実践的解釈を体験する。夢とアートセラピーを合わせた夢解釈法をアートセラピー・スクール「オーロラ」で学ぶ。以後、アートセラピー・スクール「オーロラ」、朝日カルチャー新宿校及び横浜校、エイトスター・ダイヤモンド、サロン・ド・テ・ミュゼ イマダミナコ新宿タカシマヤ店、吉元由美のLIFE ARTIST、船井メディア等で講演並びにワークショップ開催。


by hiroshimapop | 2015-06-07 08:45 | おススメBOOKS | Comments(2)
ぼくのイニシエーション体験
『ぼくのイニシエーション体験』という本。もう何年も前に購入したままずっと本棚に積ん読してましたが、先週、なぜか急に本棚のこの本が気になり、それも、不思議のいなくんが読むといい気がして、彼に手渡す前にと、ダッシュで読了。

こんな本です。
『西アフリカの村から4歳の時にフランス宣教師に連れ去られ、西洋人としての教育を受けた著者が、部族社会の成人儀式(イニシエーション)での霊的世界体験を中心に、先祖の知恵を獲得するまでを語る』


著者が育ったアフリカのダガラの村。
人々は目に見える現実世界とは別の世界があることを当然のように受け入れており、図鑑や生物学の本に載っているような動植物以外の全く違う精霊や霊、妖怪たちが気がつけばすぐそばに生きていて、それらが自分たちの人生の節目節目に関わってくる・・・。そんな世界観のなかで暮らしています(「います」と書きましたが、これは「いました」と書いたほうが正確かもしれません。ダカラの村では、かつて行われていた超常的な儀式は時代とともに出来る人がいなくなり、人々の暮らしも感覚も、西洋化して変わってきたそうですから・・・)

そのダカラの村の生活について著者はこう書き記しています。
ダガラの人々の間では、超自然現象といった言葉がない。それに類する一番近い意味の言葉は「イェルボングラ」(原注:人間の知識が食べることのできないもの)になる。この言葉は、生命や絶対的な力というものは、すべてのものをカテゴリーに当てはめようとする知恵を、超越したところにあると示唆している。

西洋文化では、一般に精神世界と物質世界の間には明白な境界線が引かれ、区別されている。しかしダガラでは、両者に明白な境界線はなく、超自然現象というのは日常生活の一部になっている。部族では、あらゆるものに精霊が宿り、日々の暮らしの中でも何かの形で霊たちと関わって人々は暮らしている。部族のものにとっては、日常生活は、高次元で霊たちと交流する儀式や祈祷から、一時的に休みをとっているだけの時間だと解釈される。精霊と交信するというのは、興奮状態が続き、ひどく疲労するため、休息が必要なのだ。


最近私は友人と、私たちがいかに自分たちの感覚を「閉じている」か。自分たちがこの物質社会の中で、表面的に何ごともないように振る舞いながら生きていけるよう、あるいは自分自身を何かから護るために、ずっと目覚めさせないよう「閉じた感覚」があることを話していました。宇宙や自然の法則を感じる感覚、異界のモノたちと交流する能力もその1つかもしれません。

「誰1人として同じ中心をもたない。たとえ家族でも、先祖でもみな、自分だけの中心がある、それは1人1人が円そのものであり、円がなければ中心はありえないからじゃ。また中心がなければ円もない」

「中心が見つかれば、すべてのものが東西南北を象徴する4つの部分に分かれる。日が沈む西にあたる部分『水』は霊魂や肉体に安らぎをもたらし、それぞれの内面と外側の隔たりを埋める働きを象徴する。それは日の沈む方向には生命の源、水の神様がおられ、わしらののどを潤してくれるからな。逆に日の昇る方向には『火』の神様がおられる。火の神様は人々にやる気を起こさせ、あらゆる感情を生むエネルギーになる。これがなければ人は何ものをも愛したり、恨んだりすることができなくなる。『火』は大いなる力であり、人の内面にも外面にも向けられる。外にむければ人と人とがつながり合え、この世の使命を遂行していく原動力ともなろう。これが内に向けられると、霊的な力を引きだしてくれ、1人1人が互いに求め合い、家族や共同体としてまとまりをもとうとする。・・・・」



アフリカの子どもたちを西洋化するために、また、キリスト教の世界観を押しつけるためにダカラの子ども達は組織的に誘拐され、強制的に寄宿舎に送り込まれます。15年ほど経った頃、その学校をから脱走し、かつて自分が暮らしてきた村に戻ってきた著者は、長老の命令により、先祖が持っていた智慧や感覚を自分の中に取り戻すだめ、1ヶ月近いイニシエーションを受けることになります。

昔、ドキュメンタリーで、蔓に足を結んで高い塔から飛び降りる(バンジージャンプの元となった)、性器を錆びたナイフで傷つける、といったことを成人儀式にしている部族の映像を見たことがあります。が、著者が経験した成人儀式はそれらとは一線を画します。完全に個人的な内的世界への旅であり、向こう側の世界に繋がっている扉を開けるために儀式のようでした。

どの儀式も、言葉で説明しきれないものを言葉という限定された枠内で説明しなければならず、おそらく私達には想像もできないことがイニシエーション中に起こっていたのだと思います。

著者が、森にあった1本の木を何時間も見続けることによって、その木の中に木以外のものを見いだす、という課題の描写はとても美しかったので、その部分をご紹介させていただきます(村の青年は、1ヶ月もの間に、いくつもの危険な儀式を経験しますが、この儀式は、いわば現実界と異界の間の「あわい」に入り込む感じなのかなーと思います)。

著者は、イェラという木の前で、緑色の女性と出会い、その圧倒的な愛の感覚に感動します・・・。

僕はこんなにも底知れない愛を感じたことはかつてなかった。この世に誕生して以来、彼女を探し続け、やっと出逢えたという喜びで胸が一杯になっていた。ずっと以前にも彼女に会っているはずで、それがいつ、どこで、どんな出会いだったか憶えていないが、妙な懐かしさがこみあげてきた。人をこんなにも愛おしく思えるなんて、僕には初めての経験だった。それは恋人同士のロマンチックな愛でも、親子の情愛でもない。すべてを超越した愛だった。長い間離れていた分の、その空白を埋めんとし走り寄り、互いを求めて強く抱擁しあった。

僕の体中の細胞という細胞が一個の意識体となり、彼女が自分の内にあるという実感を味わっていた。細胞たちは僕が彼女と結ばれるのを長く待ち望んでいたのだった。それは互いの1つ1つの細胞にも必要なことで、もし2人の細胞同士が結びつかなければ生きていけないかのように互いに求めあい、出会うべくして出会ったという感じだった。2人の細胞は宇宙のかなたまで流され、互いに絡み合いながら無数の螺旋となって戻ってきた。それはまるで時間を溯り、異次元空間を前進しているような感覚だった。


私達は、脳や精神や心を介して世の中を見ていますが、それらを介すことなく、全く違う体感覚を目覚めさせることではじめて繋がれる世界や触れあえる何かがあるのではないか・・・? そんな世界を知ることなく生きている私達のほうが、実は損をして「遅れている」のではないか・・・?

そんなことを思いながら読んでいました。
同じ地球に生きているなら、「あわい」や「異界」も旅しながら地球滞在を楽しみたいです。


追伸:ひたすら美しい世界の少数民族の写真。彼らを「遅れている」と、どうして云えるのでしょう?


by hiroshimapop | 2015-04-21 08:50 | おススメBOOKS | Comments(0)