毎日がエドガー・ケイシー日和 ケイシーグッズ専門店テンプルビューティフル店長が世界を飛び回りながら、今を健康的に生きるヒントをお伝えします。

毎日がエドガー・ケイシー日和

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『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』
私の記憶では、プロの俳優さんが演じる本格的な舞台を見たのは、まだ広島に住んでいる頃。たしか、広島の呉市の市民劇場で公演されたこまつ座の『きらめく星座』だった記憶が…。公演直前にチケットを手配したので、狭くて急な2階か3階席の、それも後ろの席でステージは遥か遠く。でも歌あり笑いあり、涙ありの舞台は井上ひさしワールド炸裂! 『きらめく星座』がきっかけで、私の演劇好きは始まった気がします。

井上ひさしさんの小説がもともと好きだったので、こまつ座の舞台は、こまつ座だから、という理由でよく見に行ってました。こまつ座によく出演される女優の梅沢昌代さんも好きで、梅沢さんが出てると、もれなく見にいく感じでした(過去形で書いているのは、ここ数年はかなり観劇回数が減っているので…)。

その「こまつ座」の座付作家であり作家の井上ひさしさんが、ガンの闘病中、こまつ座社長となった娘さんにかけ続けた真夜中の電話をまとめた本が『夜中の電話』。

抗がん剤治療の合間に、父が娘にかけ続けた電話は、毎晩、夜の11時頃から始まり、明け方、朝8時、9時まで続いたというから凄まじい。その様子を娘の麻矢さんはこう書いています。

こまつ座の今後のこと、社長の心得、仕事の進め方、稽古場や劇場の現場のことなど話をしていると、時間はどんどん過ぎて行き、毎日、長電話になってしまう。1度だけ、私は父に言った。「社長、こんなに長く電話で話しているのは身体にさわるので、寝たほうがいいのではないですか?」と。私は父とプライベートな話をする時以外は社長と呼んだ。
「僕は命がけで君に伝えたいことが山ほどあるのに、どうして君は、それをきちんと受け止めてくれないのだ」と怒られた。(中略)

会話の内容は時に厳しかった。演劇という世界の大変さを、身をもって知っている父は、なんとか乗り切れる知恵を自分の命と引き換えに伝えてくれる。(中略) 電話が終わると私の手には血豆が出来ていた。一言一言、父の言葉をノートに書き留めながら話を聞いていたので、その指に血豆ができてしまったのだ。


この本には、井上ひさしさんの短い言葉と、それを受けての娘さんの思い出話やエピソードが紹介されています。井上ひさしさんが娘さんに語り続けたこの時期は、ご自身はガンで闘病中、そして末娘は問題山積みの劇団を引き継いだばかり。自分が魂を注いできた「こまつ座」が、自分がいなくなったあとも続いていくかどうかは、全てはこの電話にかかっている。一言ひとことには、そんな気迫のこめられていたのでした。
*自分という作品を作っているつもりで生きなさい
幼いころから父から言われ続けたこの言葉は、どれほど私を人生の窮地から救ってくれたかわからない。挫折が多かった私が何とか曲がらずに生きてこれたのも、この言葉があったからではないかと思う。(中略)
いくつになっても完成することがない自分という作品作りを誰もが行っている。作品が完成するのは遠い先だけど、作っていく上で必要な過程であったと思える道を歩みたい。

*自律しないと本当に人なんて助けられない。まず自律すること

「じりつ」という言葉を父が書く時は、よく自分を律するという「律」の文字を使った。そこに父の強い思いが込められている。読んで字のごとく、自分を律することが自分で立つ「自立」より、より深い意味を持っていたのだ。自分で立つのは当たり前。自分を律するところまで成長することが大切だという意味だろう。

*何かに進んで行く時は、立ち止まったらうまくいかない。だからリーダーは立ち止まってはいけない

「どんなに大切な友であろうと肉親であろうと、誰が何を言おうとも、君は今こまつ座のことだけを見て生きて下さい。その覚悟を持って下さい。君が立ち止まったらうまくはいきません。今こまつ座はまさに雪山に放置された状態です。君は隊長なのだから、隊員から不平不満が出たとしても、皆の命を守るために歩き続けるしかないのです」


これらは決して不特定多数の誰かのために残されたメッセージではなく、全て娘さんとこまつ座のために残されたものですが、市井の人たち人生に寄り添い、作品を書き続けた井上ひさしさんの言葉は、時に厳しく、そして温かいものばかり。こまつ座の舞台、ひさびさにまた見に行きたくなりました。

…と書いていたら、大晦日、NHKで『きらめく星座』が放映されたんですね。有料になりますが、オンデマンドでしばらくこの舞台が見られます。


by hiroshimapop | 2016-01-02 07:20 | おススメBOOKS | Comments(0)
身を清め、衣服を清くし、手を清くして尊い御用を行う
11月に参加させていただいた皇居の勤労奉仕の最終日、私たち『へそ道団』は、宮中三殿エリアを、それも午前、午後の2回、清掃のために入らせていただきました。ここは皇居のなかでも特別な聖域です。

もちろん、賢所など三社がある神域は固く扉が閉ざされていましたが、ちょうど11月の新嘗祭直後でしたので、新嘗祭に集まられた方々が過ごされたという区域の清掃があり、普段、お会いすることは絶対にないであろう方々が過ごされた場所に、時差はあったものの、同じ空間に立たせていただけた、というのはとても感慨深いものがありました。
新嘗祭…天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる(Wikiより)


そんなこともあり、この特別な神域では、どのような方がどのように過ごされているのかしら?と、自宅に帰ってネットでチェックしていたら、戦前から57年間、人生のほとんどを内掌典(宮中祭祀を司る方々)として宮中賢所で過ごした、という女性のインタビュー本『宮中賢所物語』がありました。

いやー、いろんな意味でこれは特別な本でした。おそらく、ですが、宮中賢所は、人がいる場所として清浄中の清浄の場所であり、その空間の聖域さは、俗にまみれている私たちには全く想像できない類の清浄さだと思います。使われている言葉も特別でしたし…。

特に驚いた「浄め」のあたりを少しご紹介させていただきます。

「次(つぎ)」と「清(きよ)」
賢所の生活におきまして、もっとも重要かつ基本的なのは「次清(つぎきよ)」についてのしきたりでございます。
賢所は最高に尊く、最高に清い神様でおいであそばします。お護り申し上げますために、内掌典(ないしょうてん)は常に身を清め、衣服を清くして居住まいを正し、手を清くして御用を申し上げます。

清浄でないことを賢所では「次」と申します。身体の下半身に手が触れました時や、足袋など履き物を扱います時、財布(お金)に触れました時、外から受け取る郵便物や書類、宅配便などを受け取ました時など、このような場合は手が「次」になります。「次」になりました時は、必ず手を清まし(洗い)て清めます。

これに対して清浄なことを「清」とし、清いものと清くないものを「次」、「清」と区別して、重ねて「次清」と申します。どんなに細かなことでも厳格に自分で区別することが、最も基本の大切な心構えでございます。

着物を着替える時など、気をつけていても、ついつい「次のもの(腰巻)」などを触ってしまいます。「次」を触った手で他のものに触れてしまうと、清と次が混同してしまいますので、触ったら間をおかず、すぐに手を清まします。(中略)

普段から常に手を清く保ちながらも、御殿に上がります時には、さらに清く致します。「次清」は候所(*普段すごすところ)と御殿では、また別でございます。

御殿の中に進みます前に、まずはお手水のお流しにて右手で柄杓を持ち、左手に柄杓の水をかけてから、側のおしろもの(塩)をいただいて、両手をすり合わせて手を清め、水で口をすすぎ清めます。あらためて両手を清まし、その後、必ず側の清い麻の手拭で拭います。お清めの布でございます。

このように清めた手で、清い御用をさせていただきます。清めました手は決して自分の衣服には触らないようにします。御用で使います御品々なども、最初は水でお清め致します。御殿の御用はすべて「お清い御用」でございます。

御内陣の御前のもっとも尊い御用をさせていただき、また御前のおしつらえの御品を手に戴きます時、それは「お清い」以上に、畏れ多くもったいのうございますので、そのような御品を「もったいない御品」、そして触れさせていただきました手を「もったいない手」と申します。

御用がすみましたら、必ずお手水のお流しで手を清まし、口をすすいで、「もったいな気」をお流し致します。これを「次める」と申します。常態に戻ることを申します。(中略)

候所での生活にも、自らの自覚で規律を重んじ、ごまかしを決して致しません。御殿をお護り申し上げますために、常に清々しい心にて、身を清め、手を清め、御用を申し上げます。


普段すごしているところでも清めの様々な作法があり、御殿にあがるときにはさらに重ねての浄めがあるわけですが、女性には生理があります。生理中のときの清めについてはこのような感じだそうです。
「まけ」(女性の生理)は最も穢れにて、御用はご遠慮申し上げます。
まけの1週間は、着物やお化粧品は、まけ専用に用意したものを使います。(中略) まけてから7日目の夕食後に常態(中清)に戻る準備を致します。

まけ用に使いましたお化粧品などを片づけ、鏡台を布で拭い清め、常用のお化粧品を出して整え、まけの時使用のお茶椀とお膳をおしろもの(塩)で清め、清いお箸、お箸箱をお膳に載せておきます。(中略)

8日目、起床後すぐに、まずは潔斎。身体をお清め致し、口、顔を清まし清めます。もし潔斎の前に過って口をすすいだり水を飲んだりすると、その日は清くなれませず、自分の不調法をお詫び申し上げて、1日延期になります。(後略)


もちろん、トイレに行くとき、着物を着るとき、寝るときにはそれぞれ清めの作法と段階があり、皇居から外の世界(つまり私たちが暮らす世界)に外出する際、戻ったときには、またそれ相応の作法と清めの段階があります。身内が亡くなったときの喪についても厳しい作法がありました。

自分がどのような場所におり、何に仕えているのか自覚していないと、この清めの作法は、平成の世までも続いてないのではないでしょうか。「清」と「次」をはっきり区別する。中清、大清があるように、次にも次の段階があり・・・。

伊勢神宮の清めの作法や段階は分かりませんが、これほどまでに清めの意識をもった神職の方々が日々奉仕されている宮中三殿が日本の中枢にあり、過去から現在、そして未来へと祈り続けられている、というのも、また、凄いものだなぁと思います。

戦後、皇居内の職員の職域や所属が大きく変わり、インタビューを受けられた高田さんがされていたような仕事ぶりや暮らしぶりとは今はすでに変わっているようですが、話されている言葉の雰囲気も含め、興味深い本でした。そして、自分の清め具合、聖と俗、清と次の混同ときたら!と愕然としてしまいますよ。


by hiroshimapop | 2015-12-20 22:45 | おススメBOOKS | Comments(0)
書籍『「神様アンテナ」を磨く方法』
10月にブログで紹介したことがある桜井識子さんの最新刊。

識子さんが検証されたというトイレでの金運アップ法や、生理中、喪中の神社参拝の可否について、など、面白く読みました。

トイレでの金運アップ法を少しだけご紹介すると、「トイレはいつもキレイに。便器にウンがついたらすぐに掃除」「排泄後臭かったらすぐに消臭」というのをこまめにしていたら、金運アップを実感したそうですよ。

本には消臭剤をシューっとすると良いと書いてあったんですが、経験からいうと、菜食している限りトイレは臭くならないし、キレがいいのでトイレの便器も汚れないので(ホントです!)、思わず、ベジ仲間で、毎年金運アップのために早稲田の穴八幡神社に一陽来復御守を買いに出かけているサンプラザ中野くんに『・・・ということは、ベジタリアンの人は基本金運アップの素地はあるはず』とメールしたんですが、どうなんでしょう?

ベジVSノンベジ で金運状況を測ったことがないんですが、いずれにしても、トイレの神様にいつも気持ちよくトイレで過ごしていただけるよう心を配る姿勢は大事ですから、 家でも外でも、自分が使ったあとはキレイに、を心がけておくと、感じいいですよねー。


そして、神社話ではないですが、介護の仕事をしている著者が気がついた玄関わきの植木と住人の運勢との関係。
突然の不幸・・・例えば、事故に遭って体が不自由になった、大きな病気がすでに手遅れの状態で見つかった、認知症と診断されたが常識を超える速さで急速に進んでいておかしい、若いのに脳梗塞で倒れて体が不自由になったなど、そういった不意に訪れた不幸に見舞われたお宅に行くこともよくありました。

そういうおうちで気がついたのが、玄関わきに置いている植木鉢の木でした。その木が枯れている状態なのです。
「あ、ここの家もそうだ」
「え?ここのお宅も?
というふうに、本当に多かったです。

木ではない草系の植物は枯れていても、何か急な不幸があるわけではない、植木鉢ではなく地面に直接植えている木が枯れていても問題はない。植木鉢の木が枯れているときに問題が発生しやすい、ということのようですが、これは風水を学ぶ身にとっては気になる話。

もともと、植物であろうと、木であろうと、枯れた植物を置いておくことは、玄関だけではなく、家のどこであろうと風水的にはNGです。特に玄関はその家のエネルギーの入り口ですし、玄関から出入りするたびにそれを目にすることになりますから、潜在意識や家のエネルギーへのインパクトが大きいのかもしれません。

植木鉢に入っている木が枯れているとき限定で起きやすくなる運勢の低下、というのがよく分かりませんが、ちゃんと世話をしてやれば永遠の命がある木を植木鉢という狭いところに人の手で植え替えておいて、世話を怠るとは何ごとか!ということなのかもしれません。ノビノビと根っこを伸ばせる環境にないぶん、よりその木に対し配慮を求められているというか。

コンテンポラリー風水では、状況が許せば、玄関脇に対の植物を置くことを勧めることが多いのですが(木よりも玄関ドアの開閉の妨げにならないサイズの季節の植物を勧めることが多いです)、植木鉢の木を置いている方は、ご注意を。それから、玄関わきに植物を置くときには、玄関のドアに対してバランスのよい大きさの植物がオススメです(枯れた植木や、植え替えたりして空になった鉢はすぐに玄関脇から撤去して下さいねー)。

いずれにしても、外から家の中に入ってくるエネルギーだけではなく、その植物に対し、そして玄関から家の中まで、そこに住む自分の気持ちとエネルギーが届いているかどうかは大切。今はまさに大掃除シーズンですが、家の中には「どうでもいい場所」は1つもなく、物置であろうとトイレであろうと棚の中であろうと、全てのエリアが自分の人生を彩る大事な場所。

これから年末までの2週間、そこに何が置いてあるか何があるのか、モノと自分との関係性を把握しながら、少しずつでもその場を整えていきたいものです(ほぼ自分に言い聞かせてます)・・・。



by hiroshimapop | 2015-12-15 15:10 | おススメBOOKS | Comments(1)
本棚の本プレゼント again!
ひさしぶりに本棚の本のプレゼント企画です。
今回は、こんな感じの山にしてます(11ヶの山があります)。
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★応募方法
読みたい山があった方は、どの本の山が希望なのか(どれか1つに決めて下さい)と、お名前、メールアドレスを非公開コメントでお知らせ下さい。 
ご住所、電話番号などは、当選した旨のご連絡を差し上げたあとで教えて下さい。 (残念なことに、毎回、メールアドレス書き忘れのために送れない方がいらっしゃいます

送料はこちら負担の宅急便で送ります。ただし、1年以内にテンプルでお買い物をして下さった方(自己申告)優先の先着順です。過去1年間にテンプルで買い物をしたよという方は、それも必ずお書き添え下さいね。
*カバーのない本もあります。それはご容赦下さい。

当選された方には、お知らせいただいたメールあて、後日ご連絡させていただきます。
*11月18日、19日の両日の日中はパソコンが開けないため、夜までブログのコメント欄を確認できません。
*本の発送は21日(土)の予定です。

本のタイトルは写真をご確認下さい。タイトルが読めないものもあるかもしれませんが、それは直感で決めてください。

                  ①言葉を味わう系(鈴木さまにお送りします)
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                  ②たべもの、食事系(浦川さまにお送りします)
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                 ③からだ系(小久保さまにお送りします)
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                  ④お仕事系 (宮田さまにお送りします)
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                 ⑤ともだち系(小山さまにお送りします)
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                 ⑥ 矢作&保江本(依光さまにお送りします)
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                    ⑦ 小説系(出口さまにお送りします)
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                 ⑧ スピ系①(よりみつさまにお送りします)
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                  ⑨ スピ系②(伊巻さまにお送りします)
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                 ⑩ スピ系③(タチバナさまにお送りします)
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                 ⑪ イティハーサ(佐藤さまにお送りします)
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若干ご説明を加えると、
⑤の「ともだち系」には、UFOコンタクティ、ビリー・マイヤーが書かれた小冊子(フィグ・ヤーパン刊)を数冊加えています。


11月20日追記
2日間、車の中か歩いているかの移動が多かったので、ご連絡が遅くなりました。
今回はスピ系②にご希望が集中してましたー。

テンプルでの買い物履歴があるという条件はありますが、基本、早いもの順なので、今回、お送りできなかった方も、次回、ピンと来たら速攻でご連絡下さいね。
by hiroshimapop | 2015-11-17 16:40 | おススメBOOKS | Comments(28)
パワー・オブ・タッチ(その2)
昨日に引き続き、『パワー・オブ・タッチ』のご紹介。
内容を引用するのは、第3章(幼い子どもにふれる必要性)からです。


1248年、ドイツのフレデリック2世は、言葉を聞くことなく育った子どもが何語を話すのか調べるために、とても残酷な実験を行っています。生まれたばかりの赤ちゃんを母親から引き離し、乳母に預けました。ミルクは与えたでしょうが、その乳母は赤ちゃんに話しかけることも触れることも禁じられていました。

果たして、そのように扱われた赤ちゃんは、一体どのような言葉を話し始めたでしょうか?

実はこの実験は失敗に終わりました。言葉を話す年齢になる前に、全ての赤ちゃんが死んでしまったからです。

なんと愛のない実験!

しかし、同じような育児法が19世紀初頭のアメリカでは主流でした。ホルトとワトソンという博士によって推奨された最新の育児法は、赤ちゃんを孤独のまま育てるに等しいものだったのです。

ワトソン博士が書いた本には『母親の必読書』と推薦されていたそうです。
『良識ある子どもの扱い方・・・決して抱きしめてもキスしたりしてはならない。膝に座らせたりしてもいけない。どうしてもキスしなければならないとき、子どもがおやすみを言いに来た時にいは、額に1度だけすること。朝、子どもと握手しなさい。難しいことを子どもが首尾良くやり遂げた時には、頭を軽く叩いてあげなさい・・・』


ホルト博士の育児法も負けず劣らず凄まじい。
『ゆりかごは捨てなさい。赤ちゃんが泣いても抱き上げてはいけません。時間がくるまで授乳してはいけません。必要なおむつ替えや授乳の時以外、むやみに抱いて甘やかさないこと』

これが主流の育児法だったなんて…!残酷で、愛情のかけらもない。赤の他人だって、赤ちゃんが泣いていたら抱き上げてあやしたくなりますよね。 それは人間として、生き物としての本能みたいなもの。それこそ赤ちゃんが求めているもの。なのに、その本能的な行為を真っ向から否定しています。

このワトソンとホルト博士自身は親の愛に包まれた経験なく育ってしまった人なのではないでしょうか。親との暖かな記憶が1つでもあれば、こんな機械のように赤ちゃんを扱う育児法を提唱するわけないと思うのですが・・・。

しかし、恐ろしいことに、この育児法に基づき、当時の子どもたちは育てられ、いまだアメリカで生き続けているらしいのです。こんなことしか書いてない育児法やマニュアルなんて、くそ喰らえ、です。

しかし考えてみると、今の日本では、病院で出産すると、よほど母子関係にポリシーのある病院でないかぎり、ほぼ100%に近いくらい新生児室に連れていかれてしまいます。母体を休ませ、病院サイドも赤ちゃんを一元管理できるというメリットもあるのでしょう。でも、そこには赤ちゃんが本当に必要としているニーズはほとんど顧みられていません。

私は生後すぐ、田舎の産院から大きな病院に転院させられ、しばらくの間、母親と引き離されてしまった一人。この本には新生児、乳幼児がいかに母親とのスキンシップを必要としているかが書かれているんですが、それらを読み進めるにつれ、私は自分のこの人生を、なんと孤独な環境の中でスタートしてしまったのかと、当時の赤ちゃんである自分を想像すると、本当に痛々しく可哀相になってきます。

泣いてもすぐに抱き上げてはもらえなかったでしょうし、母親の胸のぬくもりの中で母乳を飲む機会もなかったでしょうし・・・。

いまも、色んな事に諦めが早いのも、ちょっと人間嫌いなところがあるのも、もしかしたら、この時の経験が魂の奥底で残っているからかもしれませんねー。

*母親のために、フォローをしておくと、その後の私は母親ベッタリの育児を受けています。母は自宅で仕事をしていたので、常に私は母の背中におんぶされ、床に降ろすと泣く、母がトイレに行くと泣くという子どもだったそうです。ただ、母の背中に始終おぶられていたせいで、しっかりO脚(涙)


さて、赤ちゃんが母親から肉体的なケアを受けること(泣いたら抱き上げられること、ふれられること)がいかに大切か、著者は興味深い示唆をいくつも書いています。

その一部をご紹介します(少し短く書き直している部分があります)
ある研究では、出産直後の4時間に優しく愛撫された平均的新生児は2分しか泣かないのに対して、母親から離されて新生児室のベッドに寝かされていた新生児は38分泣く、という結果が出ています。

長いこと泣かせておくことで、赤ちゃんは想像以上にストレスを受けています。赤ちゃんにかなりのダメージを与えているのです。泣くことで蓄えていたエネルギーは消耗され、カロリーは消費されます。それに赤ちゃんはへとへとに疲れてしまうでしょう。

赤ちゃんには出生直後からのお母さんとのコンタクトが必須です。そうすることで、身体が暖まり、呼吸と脈拍が安定し、びっくりするような反射は少なくなります。

それまで原因不明だった乳幼児の死亡の原因について研究が行われ、タッチが足りないこととの関係性が指摘されたのは第二次世界大戦後でした。優しい愛に満ちたケアが適用されたところでは、乳児死亡率が劇的に減少しました。子どもが生きて、健康に発育するためには、抱きしめたり、優しく愛撫したり、優しく言葉をかけたりすることが必要です。こうしたからといって決して子どもは暴君になりません。ほとんどふれられずにいると、赤ちゃんは死んでしまいます。実に簡単なことです。タッチは生きるために必要なのです。

(猿を使った実験で)布でできた動かない母親に育てられた猿は、社会的に孤立した時の影響を示しました。代理母が動かないので、小猿は自分で繰り返し身体を揺すっていました。動く代理母を使った場合には、小猿は身体を揺すりませんでした。赤ちゃんには揺する動きが必要であることが分かります。何かの理由で動くことができなかった乳幼児、子ども、大人は、怒りや暴力にはじまり、おかしな考えを抱いたり、多動になったり、考えがまとまらなくなったり、様々な情緒障害を起こします。

泣くとすぐにふれられたり静かに揺すられたりしてきた赤ちゃんは、泣いても放っておかれた赤ちゃんに比べ、3歳までにより自立します。

生後3ヶ月になるまで、毎日最低3時間は母親に抱かれていた赤ちゃんは、そうされていなかった赤ちゃんよりずっと順調に育っていました。毎日約2時間長く抱かれていた子どもは、驚くべきことに泣く率が43%低かったのです。とりわけ夕方の忙しい時間帯には、そうした赤ちゃんは泣く率が51%低いことを、カナダのマックギル大学医学武のフンジッカーとバールがつきとめました。

親にスキンシップを求めている時に、その求めに応じてもらえなかった赤ちゃんは、「不安を隠すアタッチメント」になります。つまり、親が子どもを抱き上げてあやさずに、子どもの要求をはねつけていると、やがては子どもは自己防衛機能として、自分の感情を表に出さなくなることが分かっているそうです。つまり、赤ちゃんは、自分が最も不安で動揺しているとき、一番母親を必要としているときに、母親を避けるようになります。再び拒絶させらえるのを避けるためです。そういう赤ちゃんは、人を信頼せず、親密な愛情を抱くことができない大人になってしまいます。きっと自分の子どもを自分が扱われたと同じように扱うようになるでしょう。このようにしてタッチしないという悪習慣が綿々と続いていくのです。


自分が子どもの頃、親から十分なタッチを受けていなかったと愕然としてしまう方も、自分の子どもに対し、十分な触れあいをしてこなかったことに気がついた方も、これから、周りの人とふれあうことはできます。

10代の男の子はむやみに触られるのを好まないと思います。でも、その代わり、彼らは武道やスポーツで仲間と肉体的に触れあってます。大人も、自分からふれることができなくても、マッサージを受けたり、整体を受けることができます。人間に触れられない人や子どもも、犬や猫の世話をしたり抱きしめることは出来るかもしれません。

そうやって代替のふれあいを、私たちは、無意識に受けたり、したりしているんですね。

第2章(「ふれる」という感覚について)の最後に著者はこのようなことを読者に問いかけています。
タッチは、この世界に対しての、あなた自身の身体表現です。手を伸ばしますか。 控えめに歓迎しますか。それともちょっとためらいますか。 腕組みして抵抗しますか。まったく避けることもできます。

ふれたりふれられたりすることは楽しいことでしょうか。なんだか自分の存在が脅かされているような恐ろしさがあるでしょうか。とても勇気がいることでしょうか。

私たちはもう赤ちゃんではありませんから、身体にふれる以外にも愛を交換する方法は知っています。ただタッチは、どれくらい私たちが愛せるかを測る物差しです。何かのためにタッチが必要なのではなく、タッチそのものが必要なのです。

タッチはあなたが人生、経験、友情、愛とどうかかわっているかの象徴です。

タッチは力強く、愛しいものです。でも同時に、幼い時にタッチと結びつけた意味や感情と向き合うことも求められていますから、自らの存在を問うようなちょっと怖いものでもあります。


私も含め多くの人が、出逢った人に対し、そして新しい世界に対し、大きく手を広げて歓迎するのではなく、腕組みして抵抗したり、警戒心から心を開くのを避けてしまうのではないでしょうか?

なんか、それってつまらないなぁと思います。周りの人や好きな人、新しい世界に自分から手を伸ばすのは、最初は勇気がいることかもしれません。でも、出来ないままをずっと続けていても何も始まらない。必要なのは、ちょっとの勇気と練習かな。
by hiroshimapop | 2015-11-15 09:40 | おススメBOOKS | Comments(5)
パワー・オブ・タッチ
10年近く本棚に入れたまま、ずっと読まずにいた1冊。今週、ようやく手にとりました。

三砂ちづるさんが書かれた本だと思ってましたが、翻訳本でした(著者より翻訳者が目立つ装丁デザインは、かなり残念)。すでに版元で品切れで、この本の入手は中古か図書館で見つけていただきたいのですが、三砂さんが書かれた『抱きしめられたかったあなたへ』が、同内容かと思います。

この本は、「人とふれること」「ふれあうこと」がいかに人間にとって大切なことなのかが解説されたものです。ふれることは、酸素や水、食事や排泄、睡眠や休息と同じくらいに必要な「生存ための基本的ニーズ」である、犬や猫は簡単に手に入れているものを人は手に入れていない、とも書かれています。

動物は常にお互いを触れあっています。自分の子どもがケガをすると親である動物は子どもを舐めたりさすったりします。でも人間は、自分の子どもがケガをすると「泣くんじゃないの!」と怒られ、絆創膏を貼られて終わり。そうやって、私たち人間は大人になっていくのです・・・。

私はまずこの本が、アメリカ人によって書かれていたことに驚きました。日本と違って、ふれることを十分満たしている文化じゃないの?と思ってました。

欧米の人たちは、日本人に比べ遙かにハグをします。親子、友だち、知人に対し、軽くであっても、会えば常にハグをしたり、頬にキスをしたりしているように思います。映画でもドラマの場面でもそうですし、実際、何度か遊びに行ったバージニアビーチやアリゾナ、テキサスでは、人は出逢うとき、別れるときは、ハグは必須、でしたし・・・。
*巨体のアメリカ人にハグをされると私はその身体に埋もれてしまうので、ハグが嫌で逃げ回ってしまうくらい、滞在先ではハグは日常でした。が、考えたら、ケイシー関係の人やローフード施設といった場所が私の主な滞在先です。フツーのアメリカ人家庭はそんなことはないのでしょうか? よく分かりません・・・

いずれにしても、そんなアメリカ人が「ふれあいやふれあうこと」を不足と感じているなら、日本人は、いったい、どうしたらいいのですかー!と絶望的な気持ちになってしまうほど少ない、ふれあいレベル。この1週間、誰か人と肉体的に接触したのは、満員電車の中で知らない人とだけ、それも嫌々という有り様の人、多いんじゃないでしょうか?

赤ちゃんの場合、栄養は十分でも、人とふれあうことができなければ死んでしまうくらいに大切な「さわってもらうことや抱きしめてもらうこと」。

この本は大切なメッセージがてんこ盛りでした。

なお、この本でテーマになっていることは、性的なふれあいではない、でも、心のこもったふれあいです(性的なふれあいについて書かれた章も、もちろんありますが)。思春期あたりから、人にふれること、特に異性にふれることは、=性的なこと だと思い込んでしまうのは残念なことです。

この本に『言葉では5分もかかるのに、ふれれば5秒で愛情が伝わります。嫌なことばかりあって落ち込んでいる人には、あれこれ励ましの言葉をかけてあげるより、抱きしめてあげるほうがずっと慰めになります。暖かく身体を抱いて迎えてあげれば、それは「あなたに会えてとっても嬉しい」という意味です』と書かれてましたが、まさにそう。

夫婦や恋人同士であれば、なおさら。
最近日本では、寝室を一緒にしないだけじゃなく、全く肉体的にふれあわない夫婦も増えてますよね。そういう夫婦は、喧嘩したとき、いったいどうやって仲直りするんだろう?と私は常々思っているんですが、ふれあったり抱き合ったりしない仲直りって、仲直りしたようで、互いの心の奥底では寂しさが積み上がっている気が私はします。


親子でもふれあいは大事。
そういえば、母の病気が見つかったあと、私は当時1ルームの部屋に住んでましたが、東京の大学病院に通院してもらうために、その1ルームの部屋で母と一緒に暮らし始めました。元気だけが取り得だったのに手術の後はずいぶんと弱ってしまって母と出かけるときには母の腕を組んで支えるように買い物に行ったりゴハンを食べに行ってました。私はそれを何気ない行為としてやっていたんですが、母はそれがとても嬉しかったようで、母の姉たちから電話があると「今日、なおちゃんが腕を組んでくれて一緒に**に行った」「**にゴハンを食べにいった」とよく話してました。一緒にどこかに行った、というだけじゃなく、娘と腕を組んで歩いたこと、娘に肉体的に支えられていたことが母にとっては嬉しかったんだなーと、あらためて、この本を読みながら思い返してました。


第1章(ラビング・タッチ 「ふれる」という愛)から、「ふれるということ」について著者が述べている言葉をいくつかご紹介します。
私が伝えたいのは「ふれることは愛すること」です。あなたの周りをよく見てください。ふれるということがあまりないことに気づくはずです。あったとしても、限られた行為が、限られた人に、限られた程度に行われているだけでしょう。

人と人との関係において、私たちは優しく、暖かくふれることで愛情を表現します。ふつう相手を肯定したり、励ましたり、応援したりする言葉で愛情を表現しますが、一番強い愛情を感じるのは愛情をもって身体にふれられたときです。私たちは心の奥底ではふれられたいと思っているのです。

誰かに抱きしめられたりなでられたりすると、相手が自分のことをどう思っているかわかります。本心を隠すことは容易ではありません。言葉を使えば、話をぼかしたり、あいまいに言ったり、あることを話しているように見えて実はまったく別のことを言うこともできます。「ふれるということ」はそうはいきません。「ふれるということ」は心に直接語りかけます。

人を愛する過程では、ふれることが自然で健康なのです。心の健康にも身体の健康にも必要なのです。そうして自尊心が育まれると研究者は考えています。何かの理由で人を愛することもふれることもやめてしまったら、他人の健康だけでなく、自分の健康も害しはじめます。


私たちに足りないビタミンT(タッチすること/ふれあうこと)。
子どもはもっと、そして生まれたばかりの赤ちゃんや乳幼児はもっと必要としています。子どもがいかにふれることを必要としているか、については、またあらためてご紹介したいと思います。





by hiroshimapop | 2015-11-14 12:06 | おススメBOOKS | Comments(1)
ユルかしこい身体になる
先日の三枝龍生先生の小周天講座で、最近の人は胸が閉じている、というお話しをされていました。そして胸を開くことがとても大切だとも・・・。

少し前に読んだ片山洋次郎氏の『ユルかしこい身体になる』には、胸が閉じている原因は、現代の情報過多の社会そのものが関連していると書かれてありました。片山先生によると、中年以降の身体と、今の若い人の身体は全く違うそう。そして植物のような若い人たちの意識や生き方は、この情報過多の世の中を生きていくうえでの身体が編み出したある種の知恵のようなものだとも。

身体そのものがすでに変わっているわけですから、「今の若いものは!」と言っても無駄で、日本人の身体はすでにそうなっている、ということを前提に、我々中年以降の人間は、彼らにつきあったほうが、精神衛生上よいようですよ。

少し長いですが、この本の第1章から抜粋してご紹介させていただきます。

現代人の胸は情報量の激増により過敏化している。その兆候は、大都市で街ゆく人々の身体を観察するだけで見て取ることができる。

たとえば、東京の渋谷などの交差点に立ってみる。複数の巨大な動画スクリーンと無数の広告が、否応なしに視界に飛び込んでくる。光のラッシュと明滅。スピーカーからは、アップテンポの音楽ビートや訳のわからないナレーションが降り注ぐ。信号待ちしていると、老若男女、さまざまなファッションに身を包んだ人々に取り囲まれる。人々の会話は洪水のように耳に入ってくる。電磁波はどれほど飛び交っているのか見当もつかない。まさに情報のシャワーだ。(中略)

こういう時に身体はどうしているのか。

都会の交差点に立つ人たちの姿勢を観察すると、ひと昔前に比べ、明らかに胸が縮んで上体が前屈みだ。少し猫背気味といってもいい。(中略)

なぜ、このような姿勢の変化が現れるのか。膨大な情報に晒されると、センサーである胸の真ん中が活発に細かく運動しているため、自然と上体が前のめりになる。(中略) 頭で考えてそうなっているのではなく、身体の防御機能が勝手に働いてそういう姿勢になっているのだ。(中略)

情報に対して興奮度が高いままの状態が続くと、胸の真ん中が固まってしまう。そうなると、今度は情報の流れについていけなくなる。友人や知人との会話の流れにもついていけない。膨大で流動的な情報の流れについていくには、何かを覚えたら忘れ、また別のことを覚えたら忘れというように、情報に対し頻繁に意識のリセットを繰り返す必要がある。これは身体の側から見ると、胸の真ん中にある情報センサーを、非常に高速かつ細かく、縮めたりゆるめたりする必要があるということだ。(中略)

整体の視点から見れば、情報は頭だけで処理するのではなく、身体で処理するものである。当然のことながら、現代の20代と中年以上の世代では、情報に対する身体の感受性に大きな違いが生まれる。

膨大な情報に触れていると意識を頻繁にリセットする必要があり、(略) 個人差もあるが、今の若い人は胸の反応が非常に早い。彼らと中年以上の反応速度を比較すると、自動車とロケットほどの差がある。(中略)

情報のセンサーである胸の動きは、骨盤の真ん中にある「仙骨」の動きとも連動している。(中略)

身体は本来、息を吐ききった時に一番リラックスすることができる。これは仙骨が十分に前に傾ききった時にリラックスできるということでもある。呼吸が安定していて、この仙骨の動きの前後運動が十分にできていれば精神的にも安定した状態だといえる。

しかし、情報に対し胸が頻繁に反応していると、息を吐ききる前に慌てて息を吸ってしまいやすくなる。胸が、細かい情報に反応するために頻繁に縮んだりゆるんだりしていると、この胸の動きに骨盤の動きがついていけなくなる。すると、仙骨を中心とした骨盤は後ろに傾き気味の状態で固まってしまう。そして今の若者の身体は、こういう状況になっているのが普通である。


テンプルのお店の近くに、大きなパチンコ屋さんが出来ました。毎日そこの前を通るので、ドアが開くたびに大音響が聞こえてきます。

お客さんは、数時間という時間を過ごすだけにしても、そこで働いている人たちは、館内に響く大音響と繰り返される光のフラッシュの中に1日いることになります。となると、1日中浴びている情報量たるや凄まじい。しかも、自然の音や光ではなく、すべて人工的で心にも身体にも暴力的さえある。若い女性スタッフも多そうなのですが、数ヶ月、1年と働いていたら、いったい彼女たちの身体に何が起こってしまうのでしょう・・・。 自分を守るために閉じさせてしまう感覚も多いのではないでしょうか。少なくとも、ときどき、ボディワークを受けられるといいのですが・・・。

風水のマークが、自宅に置く棚は、オープンではなく扉つきのものを勧めている1つの理由が、視界に入ってくる情報量を減らすため。家具屋さんや通販カタログで見たときには素敵だと思っていた棚も、家に設置してモノを起き始めると、いろんな色や形、素材でゴチャゴチャし始めてしまいます。でも扉があれば、中身がどうであれ閉めればスッキリ。

目にうつるもの聞こえるもの、すべては情報であり神経は常に緊張を強いられている、とは普段誰も思わないでしょうが、外だけではなく、室内でも情報過多が続くと、人の身体は、だんだん胸を閉じ、感覚を閉じてしまう・・・。


さて、そんな情報過多のなか、閉じてしまいがちな胸を開くには・・・

いろいろ方法はあると思いますが、青木宏之先生が創られた新体道のこの型はいかがでしょう? 青木先生が指導されている動画がありました・・・。



      旅先でされているのが気持ち良さそうなので、こちらもついでに・・・





by hiroshimapop | 2015-11-10 13:27 | おススメBOOKS | Comments(0)
トーマスからのメッセージ
これは不思議な本です。

すでに版元で絶版になっているので、中古が入手できなければ、図書館で探すか、英語のオリジナルで読むしかないのですが、興味があればぜひ探してみてください。

ここのところ、私は著者ジェームズ・トワイマンの本をまとめて読んでいます。著者は、地球上に存在する紛争地域に行き、平和の歌を歌うという「平和の吟遊詩人」。その平和の旅の過程で、神に導かれているとしか思えない体験を次々としていくのですが、この本は、ブルガリアの僧院で訓練をうけているサイキックの子供の一人、トーマスと交わした会話や、彼から著者の意識に送られてくるメッセージをもとに書かれています。

トーマス少年と出逢うことになったキッカケについて、著者はこう紹介しています。

2001年の1月、サンフランシスコで講演をしたときに、ブルガリアのマルコという少年に会いました。彼が信じられないようなスピリチュアルな旅へ誘ってくれました。マルコはサイキックな少年でしたが、自分が持っているサイキックな才能についてまったく当たり前のように話していました。私が驚いた様子を見せると、同じ能力が欲しいですかと聞いてきました。それから、手を差し出して、彼の指に触るようにと言ったのです。

そのことがあって3日後、私の人生は一変したと自覚せざるを得ませんでした。私は、意のままに金属を曲げ、他人の心を読み取ることができるようになっていたのです。(中略)

ブルガリアでは、サイキックな子供たちが訓練を受けている僧院へと導かれました。そこで、彼らと同じような能力を持った子供たちが世界中にたくさんいるという話を聞かされました。このような子供たちの最大の使命は、ひとつの単純な質問に要約できるというのです。彼らは世界中の大人たちにこう質問したいと切望しているのです。

自分が愛の使者であると知っていたなら、あなたは、今、この瞬間にどのように行動しますか? 何をしますか?

この質問に答え、さらに、その答えを生きると何が起きるのでしょうか。真実を片時も忘れたことのない私たちの内なる場所が活性化されるのです。ついにスピリチュアルな目が開かれると、神の恩寵と聖なるありさまがあらゆるところに見えるようにあります。(中略)

この僧院に住んでいた子供の1人がトーマスでした。彼には他の人に思いを送ることができる特別な能力がありました。非常に遠い距離でもそれが可能でした。


アメリカにいる著者はブルガリアのトーマスからのメッセージを遠隔で受け始めます。クジラやイルカが大量に海辺に流れついてしまう理由や彼らの役割についてもトーマスは説明しています(私にはよく理解できなかったのですが・・・)。

そしてトーマスが著者に伝えたメッセージの1つがこれ。
ふりをしなさい。

あなたは光に満たされた存在である
ふりをしなさい
あなたは神に愛されている
ふりをしなさい
あなたはいまのままで完全である
ふりをしなさい

深呼吸をして
真実であることに自分がなっている
ふりをしなさい

そうすれば、すべての意味が分かるようになるでしょう。


ふりをする。
ケイシーも霊的成長をするための第一歩として、まねる、練習することを勧めています。

ふりをすることについて、トーマスはこう伝えています。
もしも神があなたのふりをしている中心点にあなたがなれるのなら、流れを逆転させることができるのだ。そこが難しいところだけど、あなたは神のふりをすることができるってことさ。わかる? 神があなたのふりをするっていうことは、あなたが神のふりをすることと同じなんだよ。(中略)

あなた方は神と一体になるために地球にきているのでしょう?

そうじゃない? でも、ここまで行くことを自分にゆるしてこなかったんだね。どうしてかっていうと、自分にそんな価値はないと思っているからだよね。それでこのプロセスを妨害することなら何でも無意識にやってしまう。その結果神のところまで上昇して戻っていないんだ。下降することは自分にゆるしたけど、本当の自分以下の存在であるふりをしているために、神のところまで上昇して戻っていないんだね。


短くシンプルな言葉。
とはいえ、自分のなかに根付くまでには、まだまだ時間がかかりそう。


それにしても、ブルガリアにそんな僧院があるなんて。
どのような訓練を受け、そして、どのような大人になっているのでしょうか? そっちにも興味は尽きませんが、この本が入手できなければ、同じ著者が書いた別の本もどうぞ。




by hiroshimapop | 2015-10-24 16:19 | おススメBOOKS | Comments(0)
ひっそりとスピリチュアルしています
子供の頃から「見える系」だった著者の霊体験や神社仏閣での体験をつづったブログをまとめた本。Amazonで何か本を注文したら「この商品を買った人はこんな・・・」でオススメされていたので、まんまと買ってしまいました。広島県出身の1962年生まれだそうで、それだけでも親近感を感じてしまいます(笑)。

この本に書かれているのは、いち個人の体験、体感なので、これが正しい、そうに違いないと思うのは危険ですが、私は個人的に眷属(神様の下で働いている自然霊や聖獣)やお稲荷さんとのつきあい方などは面白く読みました。

紹介したい箇所はいくつもありましたが、著者が前世でイエスと遭遇した際の描写が、ケイシー的でいいかなと、その部分を書き出してみます。


「ダ・ヴィンチ・コード」という映画が上映されていた頃、著者は元夫とその映画を見、元夫と「イエスも人間だから結婚たり、子どもをもうけていたり、一人の女性を愛していたとしても不思議ではないし、そっちのほうが自然だと」言いあっていたそうです。

その数年後、著者は自分が前世でイエスと触れあっていたことを思い出します。
以下、その時の描写です(少し短く書き出しています)。

エルサレムに生まれた私は、男の子でした。まだ少年の奴隷でした。親に捨てられたのか、売られたのかは定かではありませんが、とにかく奴隷として働いていました。

そこの家は、キリストを支援している人の家だったと思います。連日、人が集まって何やら議論しています。晩ご飯を食べながら、いろんな会議っぽいことをしています。家の人とお客さんは大きなテーブルで食事をしています。その家は裕福だったようです。

私の名前は、ハンジャとアンジャの中間みたいな発音をする名前です。住んでいたのは、ハッサンという町(通り?)です。

私は奴隷ですから、器に食べ物を入れてもらっても、テーブルで食べることは許されません。部屋の隅っこにうずくまって、素焼きの深皿を抱えてガツガツと動物のように食べています。ガリガリに痩せています。

そんなある日、キリストが来て、私はキリストの泥というか砂で汚れた足を一生懸命洗っていました。すると、キリストが私の頭に手を置いて何か言いました。痩せこけて汚い姿の奴隷の私はビックリしました。顔を上げるとキリストが私に微笑んでくれていました。

キリストは波動が神様並みに高く、その波動を持ったまま肉体に入っているので、キリストの周囲の空間は明らかに歪んでいました。暑い夏のかげろうのように、歪んで見えるのです。キリストのオーラは太陽のように白く眩しく輝いていて、ハッキリ見えます。

オーラはほぼ物質化しかけていて、触ったら確実に感触があったと思います。頭に置いてくれている手からのエネルギーがすごかったです。見るからに「普通の人」ではありませんでした。

前世のその時に見たキリストをハッキリと思い出した私の考えは一変しました。

神様並みの波動を持ち、あの後光を放っている人が、恋愛感情を持つとは思えないのです。まして子供をつくる行為は、しようとも思わないでしょうし、体の周囲の空間が歪んでいるくらいの波動エネルギーなのです。実行するのは不可能ではなかろうかと思います。(以下略)


(そして、この夢とは別に、著者は瞑想中に、宇宙と一体化する体験をしました。その時の出来事です)

キラキラ輝く星に混じって、銀河がゆっくり回転しているのも見え「すごいなー、美しいなー」と見とれていると、その宇宙空間に神々の姿が浮かび上がって見えてきました。

姿といっても、光なのですが、その光が下からずっと上空というか、彼方へと続いているのです。神々にはどうやら等級があるようでした。手前から、高級になるにつれて、上へ上へと昇っていくみたいです。

そのはるか上空に、キリストがいるのが見えました。もちろん光でしか見えませんが、なぜか、キリストとハッキリ見えるというかわかるのです。

キリストという人間が死んで、それから徐々に神様になったのではなく、もともと霊格が高い神様が何かの事情で地上に生まれてきた、それがキリストだった、私にはそう見えました。


先日、大峰山の仙人と云われる神直先生とお会いすることができました。身近にお話しさせていただいたのですが、先生のそばにいるうちに、グルグル身体のなかに渦巻きが起こり、テーブルの前に座ってお話しを聴いているだけなのに、車酔いみたいになってしまいました。

「うわー。なんだか身体がグルグル廻る~」思っていたら、神直先生が「私とあなたとはエネルギーレベルが違いすぎるから、ずっと一緒にいると命が短くなるかもよー」と。

心の中にフト浮かんだことがすっかりお見通しでした(笑) 


神直先生は結婚されていますが、その先生でさえ、そばにいるだけで一般人の私はグルグルしてしまうんですから、イエスはさらに、強い光やエネルギーを発していたのかもしれません。

ただ、当時の人は今の私たちとは違い、大自然の中で普段から神と親しい関係を結んで生きていたでしょうから、たとえ、イエスのそばにいっても船酔い状態にはならなかったとは思いますが・・・。


いずれにしても、私は、イエス・キリストという人は、一人の大工がある日、聖霊に打たれて神になったのではない。人間の魂を救うために、神のサイドで永遠ともいえる長い時間をかけて準備し、そして地球でも、時間をかけてキリストの魂を持ったまま生きることのできる純粋な肉体を準備した末に地上に送り込まれた神のひとり子だと思っているので、青年となったイエスがマグダラのマリアと夫婦となり、子どもをもうけていた、というイエスも普通の男性だった説ではなく、幼い頃から神から与えられた使命を自覚し、霊的な英才教育を受けて育ち、独身を貫き、一人の女性に対し、特別な恋愛感情や肉体関係を持つことはなかった、という説に一票です!

イエス・キリストの誕生にまつわるストーリーはこちらをご参照下さい


by hiroshimapop | 2015-10-09 15:48 | おススメBOOKS | Comments(0)
世界の中にありながら世界に属さない
吉福伸逸の言葉』に引き続き、吉福伸逸さんの最後の遺稿だという本を読んでました。遺稿といっても吉福さんが書かれたわけではなく、吉福さんがされた講演録をまとめたもの。ほんの30人を対象に4日間にわたって吉福さんは自らについて語られたらしい…。

なんと贅沢な…。

~最終章から~
ぼくが日本に帰ってきたときに強く感じたのは、人は成長しないということでした。多くの人たちがある特定のところまでくると自分自身で成長を止める作業を始めると強く感じたのです。(中略)

もちろん外から見るといろいろな変化が起きているように見えますが、実際の内面の深い部分では何の変化も起こさない。だからぼくは、多くの人の人生は、現状の自分を保つことに腐心するだけなのだと理解したんです。(中略)

ぼくのセラピーでは常に破綻することを勧めてきました。その人が今置かれている状況の中で破綻すれば、成長とは呼べないまでも変化があるからです。

(中略)

最もわかりやすいのは結婚生活の破綻です。人は1回できあがって定着したものに、どうしてもしがみつきたくなります。非常に多くの人たちが、本当は互いにたまらない状態になっているのに、ずるずると結婚生活を続けている。だから、日本では家庭内離婚が多いでしょう。一緒に住んでいるけど実際には結婚生活はない状態。それはやはり今の自分を保とうとする保守性を表している。そういった人達に対しても、ぼくはどんな些細なことでもいいから破綻する方向で日常生活を送るようにと云ってきたんです。そうするとだんだんそれに慣れていくじゃないですか。少しずつ慣れていくと、破綻に対する拒絶感がなくなってくるんですよ。ぼくのワークショップに夫婦で来ると、ほぼ大半の夫婦が別れます。 ぼくは実際に「ぜひ別れなさい」といって破綻を勧めます。

その後どうなるか、そんなことはぼくの知ったことではありません。さっき言ったように、少なくとも現状維持を止めれば、変わらざるを得ない側面がいくつも出てくる。そこから新しい人生を始めればいいというのがぼくの考え方です。

(中略)

不安にかられた自我は、他者と同じであることをよしとする傾向がある。だから、そんなに不安にかられてない自我は、他者と同じであることをよしとしない。ぼくは別に人と違うことをよしとするわけではないんだけど、社会に縛られて自分自身がそのことで苦しんでたくさんのことを抑圧している人をみるとき、それは冗談にしか見えないんです。(中略)

でも逆に、苦しまない人は嘘つきですよ。それはみずからを欺いているんですから。ところがみずからを欺いていることにすら目を向けない。(中略)


自己啓発書やスピ系の本をよく読む人は、少なくとも内なる成長を求めているハズですが、吉福さんいわく、人はある程度まで成長するとあとは現状維持にエネルギーを注ぎ始める。

変化はしても成長はない、ということか。

内面に変化を促す一番簡単な方法は、家の中を風水に基づき整えるか、引っ越すことかも。風水コンサルに行くと、子供の頃から住んでいた自宅にそのまま大人になっても親が死んでも住み続けているクライアントさんがいらっしゃいます。子どもの頃からずっと使ってきたもの、親が遺してくれたものに囲まれて何十年も住み続ける状況だと、自分の内側に大きな変化を起こすのは並大抵ではないでしょうね(家が変われないなら、仕事を変わるという手もあり…)。 

そして、
吉福さんのセラピーでは、よくクライアントを怒らせたらしい。怒らせることによってその人の本音、本質が引き出されるから。そのことについても語られていました。

同じようにぼくは、必要だからセラピーをやっているんです。求めてセラピーをやっているわけでは全然ないんです。それはプロのセラピストやカウンセラーとしてやっていく上では、最も大切なポイントだとぼくは思っています。そのポイントさえ押さえておけば、人に本当に嫌われるセラピーができます。なぜ人に嫌われることが大切かというと、ぼくの考えるセラピーは、当人が絶対に認めたくないことを認めてもらうということだからです。「あんたがあんたのような状態で、今そこにいるのは全部あんたのせいなんだよ」とぼくは言うわけです。どんなに嫌なことが自分に起こっていたとしても、その嫌なこと、それをやっているのは社会でもなければ他人でもない、自分自身がやりたいからそういうふうになっているんだということなんです。


クライアントを怒らせることを意に介さないでセラピーができる、ということは、プロフェッショナルに徹したセラピーだったのでしょうね。吉福さんのが遺されたものは決して小さくはありませんが、それでも吉福さんが亡くなってしまったことで永遠に消え去ってしまったものを、なんだか今になって惜しんでいます。


by hiroshimapop | 2015-09-21 20:14 | おススメBOOKS | Comments(0)