毎日がエドガー・ケイシー日和 ケイシーグッズ専門店テンプルビューティフル店長が世界を飛び回りながら、今を健康的に生きるヒントをお伝えします。

毎日がエドガー・ケイシー日和

2017年 03月 07日 ( 1 )
窪田幸左衛門さん
広島の世羅郡という少々辺鄙なところにあった光田家のお墓。あまりに遠すぎて、私が1年に1回お墓参りに行くのがやっとという状況が続いていたこともあり、いよいよそのお墓を横浜に移転することとなりました。

今日は、その新しくできたそのお墓の納骨の日でした。

久しぶりに一同に介した親戚の面々。叔父や叔母から私たちが生まれる前の家族の歴史や逸話が聴けるのも楽しい時間です。

そこで「これまで知らなかったファミリーヒストリー」がいくつか登場。私が忘れる前に、覚え書きを兼ねてブログに書いときます。完全に私用のブログです、スミマセン。


母から、母方の曾祖母の実家は、山梨に大きなお屋敷を持っていたのに、戦後の農地改革でそのほとんどを失った、と聞いたことがあるのですが、そのお屋敷と同じ家なのかどうか、母方の先祖の1人が本日判明。

叔母たちが「山梨の郷土資料館や郷土史に載っている人よ。窪田という名字で、大きな水路を山梨にたくさん作った人。大きなお屋敷に住んでたんだけど、誰も住まなくなったから、今は市の資料館になっているはず」とゴニョゴニョ話すのを聴きながら、ネットで検索したら、出てきましたー。

窪田幸左衛門さん。

このサイトにはこう書かれています。
山梨県歴史上最高の土木技術者 明野村浅尾新田 窪田幸左衛門

窪田幸左衛門のかかわった山梨県下の諸堰
資料(『明野村誌』資料編 第十四編 明野村内の各種用水堰)一部加筆

明野村内における窪田幸左衛門の事跡とその業跡は、各種堰史の中に縷々述べてあるので、その資料の重複をさけるが、この項には特に明野村以外の水利事業に貢献した足跡を若干紹介してみたい。
窪田幸文家に残される資料だけからみても、それは驚くべき広域にわたっている。

たとえば
隣村江草村の嘉納堰(文政七年 一八二四)
塩川筋比志村の定式用水路(文政九年 一八二六)
穴平村の遠照寺堰(天保二年 一八三一)
神戸村の用水堰(天保三年 一八三二)
都留郡平栗村用水路(天保四年 一八三三)
一宮村宮堰の再修(天保五年 一八三四)
柳平・上今井・長久保三力村の八ヶ岳谷水の引水願い(天保十二年一八四一)
甲府上府中町々の飲用水(天保十四年 一八四三)
等、編纂資料のごとくである。
そのはか幸左衛門が普請のため見分に歩いたことを証明する添書、添触、御用書付、荷物添触等によってみると、谷村辺用水路、上野原宿用水路、遠くは駿州安倍川通りにまで及んでいる。
~以下、たくさん書かれています~


おー、すごいじゃないですか! 残念ながら、私はこのDNAを受け継いでおりませぬが、明野町は町の名前のとおり、明るくとても良いところでした。そっかー、あそこに先祖が住んでいたんですねー。そして、窪田辛左衛門さん、高齢になってもずっと現役で活躍されたらしく『不世出の遺業を成し遂げた傑物』とまで書かれています。嬉しいかぎり。

八十歳過ぎの高齢でありながら、新倉掘技工事には遠路遥々茅ケ岳山麓から出張を繰り返しており、船津村村民を説得したり、新倉村村民の協力を求めて、まさに東奔西走の毎日を送って、この事業の完遂を図っているのである。
このように窪田辛左衛門の一生は、まさに明野村一村の水利に貢献した人というよりも、近代の夜明け前に、不世出の遺業を成し遂げた傑物といってよいだろう。

住んでいたお屋敷は資料館になっていたと叔母たちは云っていましたが、検索では探しきれませんでした。山梨県にお住まいの方でご存じの方がいらしたら、教えて下さい。是非一度、訪れたいと思います。


       こんな方です。ひーひーおじいちゃんくらいでしょうか
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by hiroshimapop | 2017-03-07 17:07 | 日記 | Comments(0)