還る場所
2017年 08月 14日
自分でもネット依存だと自覚してしまうくらい、パソコンかスマホのどちらかを常に気にしていましたからね。
いまはフェイスブックやツイッター、ブログ等を通じて、誰でもが発信者、メディアになれる時代。
印刷物しかなかった時には、何度も読み直し書き直し、さらにゲラ刷りに手を加え、いくつもの行程を経てようやく印刷物となっていたので(しかも印刷代がかかり流通経路が必要)、発信者となれる人は限られていましたが、いまはアップロードボタンをクリックすれば、さっき書いたものでも瞬時にどこかの誰かに読んでもらえます。
しかも「類は友を呼ぶ」で、SNSで目にするものは、その人が興味を持ちそうな情報も多く、例えば、私の場合、繋がっている人もスピ系に興味を持っている人が多いので、先週8月8日前後には、ライオンゲートについて書かれた投稿をいくつ目にしたことか。
だから、フェイスブックなどを開けようものなら、様々な人から発せられた言葉、写真、動画、多種多様な情報が洪水のように押し寄せ、時間はあっという間に過ぎさっていきます・・・。
さらに、誰かが貼ったどなたかのブログに飛んでみると「なぜ、この方はこの若さで人を教え諭せる文章を発信できるんだろう?」とビックリするような壮大なものから、絵文字と強調文字ばかりの薄っぺらいものまで、生き方指南やうんちくが書き連ねられていることがあり、その玉石混淆の情報の海を溺れず対岸に辿り着くためには、こちらも常に取捨選択をしていかなければ、あっという間に、人が発する情報の海底深く沈んでいきそうです。
電車に乗って周りを見渡すと、ほとんどの人がスマホで何かに繋がっています。
人に繋がったり、情報に繋がったり、動画やゲームに夢中になっていたり・・・。
そんな毎日を自分も送っていたので、パソコンやスマホ画面を見つめて過ごすのがデフォルト設定されてしまっていました。
でも、そんな生活からちょっと離れてみると、常に何か外のものと繋がるのに忙しくて、肝心の自分とは繋がってない。
様々にきこえてくるスピ系情報は楽しいけれど、それを知ったからといって、自分の霊性が向上したり、祝福の経路になるよう自分を鼓舞させるものではない。素晴らしい出逢いが起こって神の導きを感じたとか、海外の聖地を巡って御神事をした、という誰かの投稿に羨ましさを感じたとしても、それは所詮、その人の人生の一コマ。そこに書いてあることと自分の人生を比べて卑下することでもない。
でも、ふと気がつくと、そんな投稿や情報に右往左往して自分を没頭させていたことに愕然としてしまいます。
そういうとき、自分が戻れる、還る場所があるというのはいいですね。
私の場合は、それが『神の探求』という書籍であり、ケイシーによる『ヨハネの黙示録』の解釈となるわけなんですが、
たまたま今朝、三枝龍生先生がこんな投稿をされていました。
カ(神の方向、再生の方向)の方向へ向かうから、あー、私は、神の方向、再生の方向に向かう、私が歩くべき道を知っていて良かった。
カヘルで、帰る、あるいは、還る。
このブログも、別にたいしたことを書いているわけではないですし、だいたい書いている本人がたいしたことないので、これを読んだからといって、昨日よりもいい人間にはなれません、残念ながら。
うかうかしていたら、人の声ばかり聞いてしまって自分の内なる声を聞きそびれてしまいます。猶予はないです。
ネットを閉じて、スマホを閉じて、自分を迷わせるもの、自分を低めるものから離れる努力をしなければ。そして、たんたんと、粛々と、日々を意識的に生き始める。神の方向、再生の方向に向かう道をもう一度、取り戻す。そして祝福の経路となれるよう、あとは日々、切磋琢磨。