毎日がエドガー・ケイシー日和 ケイシーグッズ専門店テンプルビューティフル店長が世界を飛び回りながら、今を健康的に生きるヒントをお伝えします。

毎日がエドガー・ケイシー日和

「里」いう思想
私は、かつて日本人がどのように暮らしていたか、農村や漁村の普通の人々がどのように人生を送っていたかを書いた民俗学のような本が好きなんですが、この本は、群馬県の上野村に移住した哲学の先生が、その村の暮らしで何を思い、何を感じてきたかを書いたもの。

書かれているのは、以前の日本人の暮らし、ではなく、今の、もしくは、ごく最近まであった日本の暮らし。都心での暮らしには、水木しげるが描いたような、目に見えない世界と目にみえる世界との狭間はとっくに消え去ってしまい、みえる世界だけが全てになっています。でも、田舎にはまだそういう世界観が残っているんですねー。

たとえば、こんなことが書かれていました。

上野村の「里山文化祭」の準備は、かつての村の暮らしを丁寧に思い出していく作業からはじまった。そんなある日、村に数多く残されている馬頭観音のことが話題になった。馬頭観音は、馬を使って荷を運んでいた時代に、事故にあって馬が死んだ場所や、馬が集まる場所に馬の安全を祈って建てられた供養塔である。上野村にも、山の中をぬうようにつくられている昔の街道わきには、いくつもの馬頭観音がある。

そんな話がでたとき、メンバーの1人が、その馬頭観音の話は少し違うと話し始めた。(中略) 彼の話は次のようなものであった。

<山の中には、時空の裂け目とでもいうべきものがいくつもある。それは、この世とあの世を結んでいる裂け目でもあり、私たちの世界と魔界、あるいは原始の世界を結んでいる裂け目である。おの裂け目はだれかが命をささげなければ埋まることはない。人間たちが山で死ぬのは、きまってそういう所で、ところが人間にはこの裂け目が見えない。

自然界の動物たちはこの裂け目がみえるから、そんなところに落ちることはないし、なかにはかつてのオオカミのように、この裂け目を利用して、異なる時空を移動していた動物もいた。

そして、馬もまた、この時空の裂け目をみつけることがあった。ほうっておけば、いつかだれかが命を落とすだろう。そう考えた馬は、自らその裂け目に命を投げ出し、人間の身代わりになった。馬が「事故死」するのはそういうときで、そのことに気づいた村人が、その場所に馬頭観音を建てた>

こういう話はかつて私が子供の頃にも、人々が集まったところで、普通に出てきましたし、話題にもあがってました。人はそれを馬鹿馬鹿しいとも思わず、そういうこともあるかなーと聴き入っていた気がします。

祖母も山で狐に騙された話などを、何度か云ってました。

電気も車も無い時代、日本各地で、狐に騙された、タヌキに騙された、という話はよくあったそう。単なるおとぎ話や作り話ではなく、実際、日常的にそんなことはよくあったんだと思います。まだ田舎にいくと分かりますが、街頭もない田舎道や山道は本当に暗い。あの真っ暗闇の中なら、物の怪たちも出てきやすいでしょうし…

しかし、文明が進み、スピード重視、効率重視で人間優位の世界となると、見えない霊たちと当たり前にやっていた魂の交流が人間社会から消えてしまい、同時に、そのような世界観を受け入れていた素地が私たちの心からもなくなってしまい、タヌキや狐は山にいるただの動物となり、オオカミや馬も時空の裂け目に気づかない動物になってしまいました。

動物も人間も等しくこの地球に生き、自然を分かち合って生きている仲間だと感じられる世界のほうが、人間も生きやすくなると思うんですが、コンクリートとアスファルトの中でそれはなかなか思い出せず・・・。


まだ、こういうことを云っているお祖父ちゃん、お祖母ちゃんがいたら、ぜひその話、メモして残しておいて下さい。それはとても貴重な宝になるはずです。

神話とも民話とも違う、人々の暮らしの中にあった不思議な話をかつての日本人は脈々と受け継ぎながらDNAに刻みつけて生きてきたんじゃないかなぁ。



by hiroshimapop | 2017-07-26 17:03 | おススメBOOKS | Comments(0)