『あわいの力』安田登著
2015年 06月 30日
著者、安田登さんの履歴がすでに面白い。
1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。高校教師をしていた二五歳のときに能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。また、公認ロルファー(米国のボディワーク、ロルフィングの専門家)として各種ワークショップも開催している。著書に『能に学ぶ「和」の呼吸法』(祥伝社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』(以上、春秋社)、『身体能力を高める「和の所作」』『異界を旅する能 ワキという存在』(以上、ちくま文庫)など多数。
いったい、麻雀とポーカーやっている人の何人が甲骨文字に興味を持つことになるのでしょう?おそらく皆無だと思うんですが、実は甲骨文字だけではなく、古典ギリシャ語や古代メソポタミアの楔文字で書かれたアッカド語、シュメール語も勉強している。とっくの昔に誰も使わなくなった死語を学んで嬉々としている。
役に立たなければ立たないほど面白い・・・らしいです。
どの章も、分からないけど面白ーい!とワクワクしながら読んでましたが、ここでは、ケイシー繋がりでイエスについて書かれていたところをご紹介。私には初めて知る概念でした。
本文137ページ~抜粋
『新約聖書』は古典ギリシャ語で書かれています。正確にいえば「コイネー」と呼ばれるちょっと特殊な古典ギリシャ語です。
『新約聖書』のなかに、「スプランクニゾマイ(σπλαγχνίζομαι)」という言葉があります。これは日本語では「憐れみ」と訳されますが、この言葉のもともとのニュアンスは「内臓が動く」という意味なのです。ちなみにこの語の英訳は「compassion」。相手の「感情(passion)」と「一緒(com)」になるということ、すなわち感情の同期をいいます。古代の人たちは、感情が一体化する感覚を、「内臓」で感じていたようなのです。
しかし、このスプランクニゾマイという語は古典ギリシャ語のなかでもちょっと特別な語で、ほとんど『新約聖書』のなかでのみ使われる言葉らしい。
(中略 数ページ飛ばして、152ページから)
本居宣長は「あはれ」というのは、「ああ」という感動であるが、特に恋や悲しみ、そういうことに使われることが多いといっています。恋や悲しみというのは、自分ではどうにもできないことに抱く感情であり、『源氏物語』というのは、そのどうにもできないことを描いた物語だというのです。
そういわれてみると、イエスが「スプランクニゾマイ」、すなわち内臓の同期による憐れみを感じるのも、本居宣長のいうどうにもできないときばかりです。
イエスが「スプランクニゾマイ」をするときというのは、大きく2つに分けることができます。ひとつは飢えた大勢の人々を見たとき、もうひとつが病人や死者を見たときです。
まず空腹ですが、飽食の時代といわれている現代の空腹とはわけが違います。私が学生時代は、まだまだ日本が貧しかった時代で、アパートで餓死した先輩もいました。それよりももっと貧しかった時代です。その空腹感は、ちょっと想像できないくらいにすごい。
特にイエスが見たのは何千人という空腹の人たちです。ちょっとやそっとの食料ではどうすることもできません。その人たちを見たときに、イエスのはらわたが動いた。(中略)
人々の飢餓感にイエスの内臓が反応した。飢えた人たちと苦しみを共有し、何とかしたいと思っても、何千人もの人たちを前に、ほんの何切れかのパンしかない。本居宣長のいう「どうにもできない」状況です。
そのときイエスの内臓が動いた。スプランクニゾマイです。病気や死者に対してもそうです。ふつうの人にはどうにもできない。そのときにイエスの内臓は動くのです。(後略)
この章では古代の人たちが持っていた内臓感覚について書かれていますが、この本はもともと「あわい」や「こころ」がテーマ。冒頭から、甲骨文字あり古事記あり万葉集ありギルガメッシュ叙事詩あり、聖書ありのてんこ盛りの中から「あわい」や「こころ」が考察されていきます。
普段考えたことも触れたこともなかった世界観だったので、ひたすら、へー、ふーん、ほー!の連続。安田さんの他の著書リストを拝見すると、能楽師のワキ方として、ロルフィングのロフファーとしての身体感覚についての本も何冊も発見。
本を買う冊数を減らそうと決意したばかりなのに、あー、また読みたい本が増えてしまったと嘆きつつ、少しずつ安田ワールドに突入の予感。
ともかくも、この本は面白かったですー。