日本人にとって、祈りは何か?
2014年 05月 09日
実は私は、日本の修験の世界に生きている方は『祈り』という言葉は使わないのでは、と誤解していました。(『拝む』とか『祈願するとか』を使うのかなと)。『祈り』という言葉は、なんとなく西洋的でキリスト教的な感じがしていたので...。でも修験の世界でも祈りは祈りなんですね。
そこで、修験の世界では『祈り』というものをどうとらえているのか、過去何度か大峰山に行っている友人に聞いてみました。
以下、彼女が送ってくれた修験についての本の抜き書きです。(*修験道とは、体「験」・経「験」を修めることをさしていて、難しい理屈ではなく「いかに実践するか」に主眼を置いている信仰の道だということです。だから修験道では本来どんな経文でも唱えてもOKで、逆にあらゆる宗教、宗派にも修験道の行法が取り入れられているようです)
・人間は気付いていないが、祈りは全ての人間に課せられた義務です。人間は生まれ出てくる時にも、また生まれてからも死ぬまでずっと万物万精に借金をしています。その借金を返すものが「祈り」です。
・本来の信仰とは神仏に手を合わせることだと思いがちだが、それよりも人間としての本道を歩むことが信仰そのものなのです。神仏は神仏を意識することのない動植物までを育まれているのに、どうして自分に手を合わせてほしいなどというちっぽけな心を持つだろうか。神仏にとっては全てのものが可愛いわが子であり、子どもたちが仲良く生きる姿こそ神仏が本当にお望みのことであり、これこそ何よりまして神仏に対する感謝を表したものなのです。
・人間は万物万精(太陽や水、空気その他あらゆる生物など)がなければ生きられず、それらに対して授かったものをまた返していく行為が祈りです。「祈り」のエネルギーは、神によると万物万精の調和を図るエネルギーとなるのだそうです。
・人間は他の生物を犠牲にして生きております。その人間たちが犠牲にした食べ物たちの魂の供養のためにも「祈り」は必要です。
・自分個人の幸福を願うような祈りは、本当の祈りとは申せません。万物万精の幸福を願ってする祈りが、本当の祈りです。万物万精に感謝しながらする祈りが本当の祈りです。
・祈りとは、万物万精の調和を図るため、また自分のために犠牲となった者たちを供養するために、神仏から命じられた万物の霊長としての務めです。そうだとすれば、本当の祈りとは、万物万精の幸福を願い、感謝しつつ唱えるものでなければなりません。肉体を持っている時にはなかなか分からないものですが、人間の思いというのは瞬時に相手に届くものです。だから相手を大切に思う気持ちで祈ることは、瞬時に相手を助けるように働きます。
・神仏は、人間に宇宙の進化に貢献するよう求められています。すなわち、他の魂修行を助けるよう求めておられます。全ての魂の進化を助け、見守られるのが神仏のなされることであるなら、神仏は人間にご自身の手足となって働くことを期待されておられるといってもよいでしょう。
そのためには、少しでも神仏の御心に近づかなければなりません。神仏の心とは「祈り」です。誰に知られなくても感謝されなくても、全ての者の幸せを願うこと。これが神仏の心です。
・祈りとは「胃練り」から来た言葉であり、胃とは腹のことです。祈りを一生懸命にすれば良い魂修行になります。また腹から力いっぱい声を出すことによって内臓の諸器官が活発に活動するという効果もあります。
上記にあるように、私たちは、多くの命の犠牲があって生きています。日々の食べ物しかり、靴やバッグなどの革製品しかり、医療や薬の動物実験しかり・・・。そういう命に対して、ほとんどの人が全く無頓着で過ごしていることを考えると、そのエネルギーのバランスシートは大借金状態。鶏や牛に伝染病が発症したということで、何万もの動物たちが埋められてしまったことも記憶に新しい・・・。
日本人は昔から、針供養、人形供養など、命ないものとされているものにすら供養の心を持ち「一寸の虫にも五分の魂」と、小さな虫にさえ命あるものと心を向けてきた国民です。だったら、私たち人間が生きるために命を犠牲にしてくれた動植物にはなおさら感謝の気持ちを向けられるハズ。ただそれを行為のうえで、し忘れているだけで・・・。
そうだ、自分はこれまで多くの命をいただきながら生きてきたんだと思われた方は、これまでの借金を少しでも返せるよう、その命への感謝の気持ちを添えて、祈っていきませんか。私はこれが日本人の祈りの神髄ではないかなと思ったりもします・・・。
この記事の、本からの書き抜きの文章に、とても感銘を受けました。何という優しさに満ちた文章でしょう。
ご友人が送ってくださった修験についての本からの書き抜きということですが、ぜひその本を読みたいので、何というタイトルの本なのか、お教え頂けないでしょうか。
よろしくお願いします。