毎日がエドガー・ケイシー日和 ケイシーグッズ専門店テンプルビューティフル店長が世界を飛び回りながら、今を健康的に生きるヒントをお伝えします。

毎日がエドガー・ケイシー日和

坐禅と瞑想
昨日は朝、午後の2回に分けて、坐禅講座を開催。台風による大雨が予報では言われていましたが、土砂降り雨が降ったのはほんの30分程度。それ以外は、明るい陽もさすほどの天気で傘もいらない日曜日でした。

坐禅を指導して下さったのは、徳江さん。14才のとき出家を決意し、若い頃を曹洞宗永平寺で7年を過ごし、あと2週間で出家するというときになって、一人の女性と恋に落ち、ギリギリのところで俗世に戻ってきた経験をお持ちです。(一生、結婚をしない、ということは覚悟できても、その女性が他の男性の元に嫁いでいってしまう、ということがどうしても耐えられなかったそう)

世俗に戻り、会社勤めをしながらも禅の修行は怠らず、坐禅は40年のキャリア(この場合、キャリアと表現していいものかどうかチト悩みますが・・・)。さらに駒澤大学の仏教学部、禅学科卒でもあるので、理論と実践、その両方から禅について語ることができます。昨日は理論と方法が2時間、実践1時間。初心者ばかりでしたが、3時間みっちり禅について取り組みました。


さて、ケイシーがリーディングで勧めていたのは瞑想。日本で発達したのが坐禅。

坐禅と瞑想はしばしば混同して語られますが、坐禅と瞑想は似ているようで非なるもの。特に曹洞宗の坐禅は「何も求めず、ただ座り続ける」。

瞑想はしばしば自分のビジョンや願望、あるいは神の愛を思い浮かべる、といった視覚や想念と一緒になされることが多いなか、坐禅はそういったものは一切排除。愚直にひたすら座り続けるものなのだそう。

さらに、瞑想は目を瞑りますが、坐禅は目を開けて行います。目は瞑ったとたんに頭で物語りを作り出す、様々な雑念をわき上がらせるので、目を開けてする坐禅のほうが初心者には取り組みやすいかも。もちろん坐禅でも雑念との戦いは起こるのですが、目を開けている分、眠りに落ちる確率は減るのと、自分が今、何をしているのかの自覚があるので、「雑念が起こっていること」に気がつきやすい、という気はします。

坐禅の「坐」というのは、土の上に人がふたり。このふたりとは、自分と自分。自分がもうひとりの自分を見つめるということ。今は座禅と書くことが多く私もずっと座禅と書いていましたが、座は家の中で座る、という意味合いがあるなか、屋根がない「坐」は、常にどこにいても自分と対峙する、というニュアンスなんでしょうかね。

愚直にただ座り続けるのが良いとされる坐禅。
では、何も変化が起きないかというと、そんなことはなくて、例えばチベットで修行をされた野口法蔵先生によると、マイナス20度、30度となる酷寒の中では、坐禅をしていないと人は死んでしまう。坐禅によって肉体をコントロールしているから酷寒の中、ほとんど満足な食事もない、防寒具もない世界で生きることができるのだとか。

徳江さんも、音に敏感になるので、線香の燃える音、灰の落ちる音、地球が廻る音といった普段では聞こえないようなものが音として、それも大音響に聞こえてくることがあったそう。

また日本の歴史に名を残したような人物は、ほとんどが幼少の頃から坐禅に馴染んでいたような人たち。そのために坐禅をするわけではないけど、坐禅をしていると、そのような人になる。エピソードとして山岡鉄幹の話をして下さいましたが、品川から三島まで毎月下駄履きで歩いていけるという人物は、今の日本にはいないかも。


座禅と瞑想。どちらが良くて、どちらが悪い、ということではなく、瞑想も坐禅もどちらも素晴らしい。
坐禅によって自分をリセットして瞑想によって神と自分を同調させるようにする、明確なビジョンで自分がどちらに向かっているのか明確にする、というのはダブルで素晴らしい気がします。朝は坐禅で夜、瞑想、あるいは、朝瞑想で夜坐禅というのはいいんじゃないでしょうか?


私は昨日、ちょっと暑めにエアコンを設定していたせいか、なかなか坐禅に入り込むことができませんでした。
結跏趺坐ではなく、半跏趺坐でやりましたが、たった25分座っているのが、とても大変で、最後のあたりはずっと早く徳江さん「鐘を鳴らして~」と思ってました。参加者の方々も「足が痛くて、叫びだしたくなるくらい苦痛だった」人、反対にいつも自宅でやっている瞑想より深く、25分があっという間だったと、感想は人それぞれ。同じときを過ごしても、長く感じたり、短く感じたり。心の度合いで長さが違うんですから、時間というのも不思議です。


私のように、坐禅に集中できず上の空になってしまうのは「肉の中にいるからだ」とケイシーは言っているんですよね。

問)時々、瞑想がうまく行っていないと感じるのはなぜでしょうか?
(答)それは、あなたがいまだに肉の中にいるからだ。なにゆえ主は「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と言われたのだろうか。この世に勝利しようとしていたその時ですら、肉は反逆し続けたのだ。「私が善きことをしようとする時、悪が私につきまとう――しかし、たとえ私が翼をかって天の頂きにまで飛ぼうとも、あなたはそこにいる。私が黄泉に床を設けようとも、あなたはそこにいる」(詩編139)とある通りである。

それゆえ、疑念や恐怖が訪れたなら、物質的なものに対してあなたの感覚を閉じ、主の中に自分を失え。 それは、人生に喜びをもたらすことを楽しんではならないというのではない。主もそうされたのだから。そうではなく、あなたの意識を常に明敏に行き届かせ、いつでも主の愛を知らしめる水路となれるよう怠りなく準備しておくことだ。その時、主は汝に語られよう! 281-3


徳江さんは、気功師でもありますが、こんなリーディングを見つけました。坐禅や瞑想が深まっていくと、癒しの手になるとケイシーは言っているんですね~。

(問)グループで瞑想しているときに何度か、メンソレータムを頭と額に塗られたような清涼感を覚え、その涼しい感じが鼻のところまで広がってくるような感じがしました。
(答)これはいうなれば、文字通り、天使の息と呼ばれるもの、大師の息と呼ばれるものである。この人が自分を同調させるなら、すでに述べたように、手を当てるだけで瞬時に治癒を起こす水路になるだろう。このことがもっと頻繁に起こるようになれば、それだけ自分の内にパワーを感じ、行いにも言葉にも力強さが感じられるようになるだろう。281-5


坐禅にしても瞑想にしても、本を読んだり、人に話を聞いて分かったつもりになっても、それは机上の空論。実際に自分の肉体を使って実際に体験しないと語れないものの1つじゃないかと思います。たった30分座ろうと思っただけで反逆しつづける気持ちと身体。30分ボケ~としている時間があるなら坐禅(あるいは瞑想)をしようと思うのに、心と肉体は直前になるとものすごく抵抗をするんですよ。ホトホト自分でも情けない。

これは「変わろうとする、向上しようとする自分」に対する「今のわたし」の抵抗でもあるらしいです。変わってしまったら「今のわたし」は存在できなくなってしまうわけですから・・・。

残念ながら、「今のわたし」の抵抗は想像以上に強くて、「向上したいわたし」が敗北してしまうことも多いのですが、それを乗り越え、なんとか習慣づけしたいと思っています。あ~、これも人生何十回目かの決意ですが。


ついしん
昨日参加して下さった方が、こんなiPhoneのアプリを教えて下さいました。坐禅の終了時間を教えてくれるみたいです。http://www.higan.net/feature/2011/02/undo.html
by hiroshimapop | 2011-09-05 12:26 | ホリスティック・ボディケア | Comments(0)